森林風致 演習林

 林業技術という雑誌を取り始めたのが1970年であるが、以来、2007年まで全てそろっている。その37年間に林業の動向は大きく変化しており、記事の内容は時代を反映しているのであろう。林業白書からも時代の変化と政策の転換を読み取ることができる。この間に森林は成長し続け、一方、林業は政策の影響を受ける。また、政策の課題は林業から環境へと移行している。この動向は、森林→林業→環境→森林→林業へと回帰していると見ることができる。環境→森林→林業の現代の課題の中で、林業の停滞の要因を過去に遡って検証する必要がある。林業技術の基盤は維持されたのか、また技術の革新はどのように進んだのかを検討する必要がある。
 1970年までの2年間、演習林に勤めており、演習林の改革の一端に触れた時期であった。林学にとって演習林は不可欠であるために、大学に附属したのであろうが、学部と附属施設には距離がある。演習林は林学の研究フィールドとして位置づけられるのが当然であるように見えながら、演習林独自の目的がある。それは森林を管理し、林業経営のモデルを実行することによって林学の教育・研究のフィールドを提供することである。歴史的には大学財政の確立のために設定されたとも、言われるが、大学の施設として研究教育目的以外には考えられなくなったといえる。しかし、研究教育の進展とともに、演習林を利用する研究教育の内容が変化してくる。その変化は、演習林の森林管理に組み込まれうるのかが、問題であるだろう。これは、教育研究が社会的要求を反映しているとすれば、演習林の森林管理が地域の林業動向にとってどのようなモデルたりうるかの、社会的役割に広げられるという問題でもあるだろう。演習林の小さな枠のなかにも、広い林業動向の関連を意識する必要があったのである。
1970年信州に来て学部側から演習林を利用する立場となった。近接して構内演習林、西駒演習林、手良沢山演習林があり、離れて野辺山演習林があった。それぞれ、環境林、高山帯までの自然林、施業林、草原からの遷移が特徴的であり、教育・研究に活用の可能性が大きかった。しかし、土地の移管などから年月を経ておらず、演習林教員と技術職員は環境整備に追われていたといえる。また、その整備のために予算規模を拡大し、経営事業収入を増加させる必要があって、整備目的以上に、経営事業の負担が大きくなっていった。
 経営事業の中心が手良沢山演習林の施業林であったため、他の演習林に力を割く余裕が少なくなったといえる。こうした中で島崎先生は伐出作業と間伐作業を関連づけた実効性のある育林作業の方法を研究し、演習林の現場に適用するとともに、長野県下各地の育林の指導を行った。退職後、森林塾を開設するなどして各地の育林事業に広い影響を与えたといえる。学部教員の側からの研究利用は、森林立地、気象、治山などの水文などに限られていたが、手良沢山の施業林だけでなく、西駒の高標高の自然林も含まれた。野辺山の利用は、微々たるものであったが、草原植生の維持が課題となった。これらは、演習林の枠を離れて、一般的な、また、社会の要請する研究課題たりえたかが問題である。環境→森林→林業の現代の課題とはどのように関連するのであろうか。演習林の長期計画を時代に沿って並べて見るとき、内部事情の解決に追われて、地域のモデルとなるような森林管理を打ち出しえないでいるのが現状ではないだろうか。若い教員と技術職員によって大胆な構想を提示し、地域の森林管理モデルを実現し、教育・研究に活用されることを期待している。