風致と風景 農村住民の風景評価

 富県区の活性化、グリーンツーリズムの推進活動のもとで多くの住民と接し、また、地域活動の動向などを聞いてきた。富県区は農村景観を主として構成され、6地区を包含し、各地区はさらにいくつもの集落に分かれている。住民組織としては、区、地区、常会となって、自治的な活動が展開している。区全体の景観は、中央の高烏谷山の山系で東の2地区と西の4地区に区切られており、小学校も中学校の学区も分かれている。
 地域活性化は、住民の生活の土台となる地域が危機的状況にあるという問題意識から出発し、危機的状況の分析とともに、そこから脱出するための計画に際して、地域環境の中の資源発掘、人材発掘を行うとともに、外部を意識して交流の可能性を検討するものであった。こうした点で地域活性化への取り組みは、地域住民の地域環境への意識化によって開始し、地域意識を共同の実行を含みながら、展開させていったといえる。
 こうした展開過程の中で、個々の住民の意識の相違と活性化などの活動への参加の相違はあるだろうが、住民全般の風景意識は、活性化以前とは相違してきたのではないだろうか。しかし、活性化活動の一方で地域の危機的状況も進展しており、景観に含まれていた資源的な価値が減少している。年齢にもよるが、この地域で育ち、生活してきた住民は、こうした変化過程を体験してきているといえる。
 風景に対する意識は、住民にとって環境としての一体感の喪失から生じており、水田は仕事の場であって、水田で働く人の姿は自分自身の姿でもあったといえる。外来者は時たま来て水田で働く人の姿を見て、水田空間に農業が生み出す風景の意味を見出すのだが、住民には労働の場そのものであって風景の対象としての客体である景観の意識を持つことも無かったであろう。住民の中に農業を離れ、居住環境として地域を見た時、市街などとは異なる農村地域の良さを、風景として意識するようになるのではないだろうか。その農業離れが同時に農村景観の衰退をもたらしているのであると解釈できないだろうか。
 富県は静かで、自然豊かな、住みよい場所だ、それは農村地域として持続しているからだという意識は、地域活性化活動とともに進展してきたように感じられる。住民が農業労働に復帰することは高齢化などで困難であることも自覚されており、農地維持も問題に感じてもいると思う。農地の団地化で遊休地の減少の事業を歓迎するなどの動きが現われており、自然育成にも積極的である。こうした活動は、地域の風景を評価し、風景地を見出し、回復させるものといえる。それは場合によって農林業の回復をも志向することも見られる。
 富県区の住民全体にそれぞれの集落の背後の山となっている高烏谷山が山地として、山頂として風景の評価が高い。毎年、5月には公民館の行事としてハイキングが行われ、多くの住民が参加している。尾根からは下方の眺望が得られ、山麓の集落からは背後を守り、水源の恵みを与える、森林に覆われた山地である。その山地の森林の育成に全地区で取り組んでいる。
 西側山麓の集落は、広々として農地の広がりを通して、伊那谷の広大な眺望が開けている。住民は農地の様々な場所からこの眺望を目にすることができる。空の広がり、雲の動き、対面する中央アルプスの険しい山頂、また、天竜川の川筋とその低地に展開する市街地の広がり、特に、その夜景のきらめきは夜空の星のきらめきと対して、鮮やかさを増している。このような眺望を構成する要素や全景が、住民にとって評価する風景となって意識されている。この眺望も前景によって左右される。農地が遊休地の藪やまた宅地化などで、広がりを失っていけば、その眺望もまた失われるだろう。
 より以上に豊かな居住環境のもとで雄大な風景を楽しみえているのであって、居住環境が貧困になっていけば、雄大な風景を楽しむ意識も減退するのではないだろうか。居住環境の豊かさと雄大な風景の楽しさが相乗的に展開するかは、住民の取り組みに懸かっているのではないだろうか。