森林風致 自然美の仮説

 森林美学にとって森林の美が問題とされたが、森林美にとって森林風致はいかなる関係が生じたのであろうか。中村先生は、風致は美を包含しており、視覚的な視野の広がりを風致とし、視野の中心に美が意識されるという仮設を立てた。フォン・ザリッシュにおいては、人が森林を観照する上で美を見出し、その美を配慮した森林の取り扱いが、ポステル間伐などによる風致的取り扱いであったのではないだろうか。
 中村先生の仮説は、視覚的な問題としては視野の中心は美というよりは、注意して見られる対象が反映しているのであって、美を意識するか否かは、知覚から高次の意識に転換してからの問題といえた。視野に写る外界の全体像と注意する対象に向けられる視線との関係を示したものであり、その視覚は環境を認識して行動する上で、瞬時に知覚される映像といえた。瞬時の知覚と注意で視線が移動し、さらに環境の細部と全体とが認識され、森林と細部に美的に構成された視覚像を認識するのではないだろうか。さらに、美的構成が内的な意識と連動して、外界と内的意識の交流が生じて情動によって高次な快感として美が意識されるのではないだろうか。
 フォン・ザリッシュの森林美の意識には、ギルピンなどのロマン主義的な自然美が反映していたといわれるが、一方で、感覚刺激として森林環境をいかに意識しているかを、当時の科学で論拠づける努力をしている。実際の林業経営家として、森林環境を経済的に利用しながら、そこに生まれる美の可能性を確信して、美の実現を目指すとともに、林学の中に位置づく科学として論拠づけを行おうとしたものが、その「森林美学」であったことは確かであろう。
 中村先生の次の仮説は、距離による視覚の抽象化が、外界の美的構成と一致するという仮説を設定した。距離を隔てると環境や事物からの刺激は次第に減衰し、感覚能力によって制限された範囲に反映するものとなる。この仮説における、距離による知覚の相違が抽象化と言えるのか、その抽象化は美的構成を知覚させるものなのかが問題であろう。知覚の距離による相違は確かに存在し、ホールによる知覚距離の提示が示されている。ホールの知覚距離は知覚する主体が意識する対象は距離との関係で意識の変化があることをあらわすものと考えられる。意識は主体によって相違していることの前提がある。特に人間間の距離は、個人が心理的に社会関係を反映して意識され、社会関係の相違が知覚距離に反映することが眼目であったのであろう。抽象化は感覚より高次の意識である点で、感覚の距離による相違を抽象化とすることは問題があったのではないだろうか。