場所と場面の構造 散歩

 居住の場、家から外出し、どこかに出かけるには、自動車、自転車、バスや電車などの交通手段を使って移動するが、基本は歩くことである。こうした交通手段は歩くことを補う手段であるとともに、歩くことを制限し、自動車、バス、電車などは、休息空間そのものを移動させることである。遠方であり、時間がかかる移動を、安楽で短時間にしてくれる交通手段の発達は、文明の進歩であった。
 原始人を想定すれば、狩猟採取の生活の上で歩くことは、食糧となる獲物を探索するための行為であったであろう。豊かな森林から、貧しい草原で暮らす上で長距離の探索が必要となり、二足歩行を進化させ、走ることさえできるようになった。探索は自然環境を受容しながら、そこで獲物を見つけることに注意して移動する。山菜、キノコ採り、狩猟は、原始人そのものである。原始人にとって、獲物を見出し、獲得できた時の喜びは計り知れないものだったであろう。しかし、獲物を見出せないだけ、探索は広範囲となり、長時間を要するものとなったであろう。定住することもできなかったかもしれない。
 こうして進化の後、人類は様々な場所へと広がっていき、再び、森を生活の場として見出した種族もあったのであろうか。草原の種族は牧畜によって食糧を確保し、家畜の利用によって移動を容易とするようになった。農耕によって生活する種族は、定住し、古代文明を開始した。森林の種族は狩猟、採取の生活に停滞したが、森林の中で探索する必要があり、文明の波及から、農耕や家畜、住居、衣服も導入し、生活の安定を図ったであろう。あるいは文明を持った種族が、森林に進出したのかもしれない。
 人類にとって歩かなくては生きていけない時代があったことは確かである。自然環境の中を歩くと原始的な本能として、生きるために歩く意識が戻っていないだろうか。最近も子供が山中を迷子となって出てこない事件が報道されていたが、山中を彷徨うのは、本能的な原始的意識なのかもしれない。数百万年の人類の進化にとって、数千年の文明は一瞬に過ぎない。自然環境への適合と人工環境での生活が、人類の能力、意識、生活の中に共存していると考えてもおかしくないのではないか。原始的な意識は潜在化し、現代的な生活意識が現実化して、意識の階層が成立しているのではないかと仮定してみる。
 散歩は、目的意識においては日常的で、現代的な文化生活の一端であるが、目的の希薄さは、歩く運動と探索の意識を強め、潜在的な意識を開放する喜びが生まれるのではないか。こんな仮説で散歩を楽しんでみたらどうだろうか。
 散歩といっても、目的は様々だろう。通勤・通学・買物などのために歩く途中も、気持ちの持ち方で散歩といえるだろう。また、健康のために歩く人も多い。飼い犬の散歩のため、もあるだろう。あるいは、一緒に歩くことを楽しみとする場合もある。写真やスケッチの題材を探す場合もある。こうしてみると、散歩自体にさしたる目的は無く、歩くことで戸外環境と交流するすることが起こってくる。戸外環境との交流が、散歩の目的ということであろうか。近隣の散歩によって、近隣環境を認知することができ、その認知によってさらに散歩を自由に行うことができる。散歩によって日常行動圏は広がる。これは、原始人の探索の行動圏と似通った面はないだろうか。
 戸外レクリエーションの中に日常的な行動となる散歩の占める割合は最も大きいことが、十分に予想できる。この散歩を延長した行動として、ウォーキング、ハイキング、トレッキング、山登りなどが上げられる。戸外を歩く行為にも、季節、場所、行動時間などで、様々な変化が生まれる。その変化に対応して環境との交流の経験が生まれる。