風致と風景 快よさと美しさ

 美しい風景、快い風致の表現はあっても、快い風景、美しい風致の表現はまれではないかと考えるが、どうであろうか。これは、風景が視覚に由来し、風致が五感に由来しているからではないだろうか。快いを和英辞書で見ると、harmonious、fragrant,pretty,sweet,lusciousuなどの形容詞が見られ、耳に快いはmusicとなっている。快適はconfort,amenityの名詞となり、風致という言葉はなく、風致地区がscenic zoneであり、景観の美しい地区と訳されている。美しいはbeautiful,lovely,fine,good-looking,exquisite,heavenly,picturesqueがあり、美しい音色はmellow soundである。風景にはscenery,landscape,view,sceneが出てくる。
 こうした形容詞と名詞は対応しているのであろうか。快いの英語は関係、色、音、香り、歌、声などが該当しているようである。名詞である風景には対応していない。風致は名詞の英語はなく、こうした形容詞にも対応しておらず、名詞自体が快よさを含んでいるようである。風景をsceneryに限定すれば、美しいという形容詞は含まれているであろう。逆に、不快な風致、美しくない風景は、不適切な表現ということになる。快く感じるから、その場所に風致が感じられ、美しい眺めであるからそれを風景というと言ってよいのではないかということである。
 脳科学において、情報処理における学習は、良い方向に向かって意識が形成されていくとされ、良い方向には快楽のようなものとして神経細胞に作用しているというのである。これを考えてみると、学習する意識の形成は、停滞することは考えられても、悪い方向には向かわないということではないだろうか。環境の快適さの学習は、良い方向、より快である方向に向かうということであろうか。不快な風致はなく、醜い風景もありえないという論拠にはならにだろうか。同時により快適や美が高度になっていくものとして学習が深められる可能性があることの論拠にもつながるのではないか。
 風致や風景は経験と学習によって深められていく実感はないであろうか。少なくとも、風景においては、風景画が画家の追及によって深められ、風景画の歴史の面からも新たな創造としての風景画家の系譜が作られうることに実証されているといえる。風致は五感の総合した快適さとして、その深まりを推測することは困難であるが、音楽家が音に精通する聴覚が磨かれ、香水の専門家が嗅覚を磨かれるなどの個別な感覚の深まりを見出すことができる。また同時に感覚は単独ではなく、有機的に関連を持っている点で、環境の総合的な快適さの向上は十分に考えられることである。
 風致や風景への意識の向上は、環境の中に風致、風景の場所と場面を見出す頻度が増大するだろう。また、環境を風致的、風景的に判断して、改善の方向を見出す判断を向上させるであろう。ある都市に風致的環境があると感じ、その都市の様々な場所に風景の場面を見出す場合、都市を形成している住民の感覚が環境に作用し、計画家の空間デザインのセンスが環境に適合していることの結果なのであろう。