場所と場面の構造 焚き火

 自然エネルギーの利用が、地球環境の持続に必要だと言われている。私の小さな頃は、かまどがあり、七輪があって、煮炊きは薪や炭によっていた。暖房も火鉢に炭団や炭で温まった。湯たんぽの炬燵も欠かせなかった。しかし、明かりは電灯があり、かろうじてラジオも電気が使われた。しかし、まだ蓄音機は手回しのものがあった。停電はしばしばだったが、ロウソクをつければ事足りた。本は明るい時に読み、夜は早く寝れば良かった。太陽は直接、陽光を降り注ぎ、朝の光を注ぎ、大気を暖め、植物を育ててくれており、何の不足も無く、太陽に感謝するばかりだった。雨さえも太陽のお陰であり、大地を潤し、流れを作り、魚をすまわせる。夜や冬は太陽が欠除し、弱まって、その回復を待って、休息している時間ともいえた。それを補うものが、火であったといえる。
 火は燃料が必要である。子供の頃、秋になると落ち葉を集めて焚き火をし、焼き芋を作って楽しかった思い出がある。焚き火のために落ち葉を一生懸命になって集め、落ち葉も貴重な価値があった。火をつけるのも難儀で、マッチに紙が必要であったが、貴重であったので、惜しみながら使うと、途中で消えてしまった。火は炎であり、炎には熱がある。熱が連鎖して次の葉に燃え移り、炎を上げてゆく。炎は空気を集めて、炎の中心と空気に触れる表面とが空気に天に向かう動きを与える。夕闇に光と暖かさを取り戻してくれた。落ち葉もまた、太陽の賜物であり、そのエネルギーの蓄積が、焚き火で放出されている。春には新しい葉が芽吹いてくる。そんな木々の生活に人は掃除をして、恩恵をこうむるのが、焚き火だったのだ。落ち葉は暖かく、地面を覆って虫達や草花の冬の棲家にもなる。
 囲炉裏のある家に泊まった時、何ともいえない居心地の良さを感じた。火の回りに人は集まり、ぼつぼつと話がはずみ、口少ない人も口を開く、火のまわりで人々の心が通じ合うようである。衰えかけた火に木を加えれば、いつまでも話は尽きず、やがて睡魔に身をゆだねる。
 木造の家は火災に会いやすい。子供の頃、火災の場所に子供や大人が駆けつけ、見守っていたのを覚えている。恐ろしい火柱に圧倒された。家の中で火災の危険に注意している。燃えるものが一杯の山火事に遭遇したことはないが、その恐ろしさ想像にあまりある。動物が火を恐れるのも当然であるが、人間が火を利用できるようになったことは驚きであり、猛獣に優位に立てた契機であったのだろう。山火事は森林を破壊してしまう、やがて遷移のもとに森林回復が生じるだろうが、長い年月を要する。また、毎年の火入れは、森林化を抑制してススキ草原を保つ。制御しえない火災と火によって環境を保全することまで行う。火は破壊と創造の力を秘めている。
 焚き火があれば野外で生活できる。火で暖を取り、調理もすることができ、火に守られて眠ることもできる。燃え盛る炎に、人の周囲にだけ、昼の太陽の輝きが再現する。人々は熱気に顔を赤らめて、焚き火の炎が生命の炎であるかのように熱情を吐露する。それは夜に閉じ込められた太陽の開放なのか。太陽を取り込む樹木や森林の偉大さもまた感じる。
 薪や炭から、電気、石炭、ガスに石油と、燃料は替わった。動力も水力、風力から火力、電気に替わった。電気は水力から火力、原子力が使われるようになった。直接、エネルギーとしての火を見ることも無くなった。それとともに、石炭のばい煙、石油の大気汚染、原子力の危険にさらされてきた。今日、資源不足もそれに加わり、持続的なエネルギーとして、太陽が元となる自然エネルギーが取り上げられてきている。これは過去に回帰するものなのであろうか。あるいは、過去への回帰で現代の危機を乗り越えることができるのであろうか。焚き火を禁止してそうした回帰はできるのだろうか。