風致と風景 風景美

 老木の桜も満開となって若い桜には無い美しさがある。冬の間、痛んだ幹、枯れ落ちた枝をさらして、肩身狭く立って入た老木が、長い年月、花を咲かせ続けた年月の蓄積を発揮して、若い桜には無い美しさを発揮しているのだ。老木はもう成長の必要もなく、花を咲かせる必要はなくなって、枯淡の花盛りを見せており、来年には枯れ落ちてしまっているかもしれない。あるいは、周りの桜が枯れていった中で、生き残った貫禄(風格)を見せているのであろうか。


 絵になるという意味で美しいと感じるのであろうか。絵になる上で人の意識を喚起する意味が絵を生み出しているのであろうか。事物に必要という意味が薄らぎ、何の意味があるのかと考えさせるようになった時、無用なものは失われていくものであろう。無用でありながら用をなすものとして美が感じられるのは、見る人の主観的な意識が作用しているのであろう。老木が花をつけなくなり、それを美しいと思う人は、多くはないだろう。
 松本市街の中心軸に松本城は位置している。堀で囲まれた城とその中心をなす天守閣の風景は、観光客を集める眺めのポイントになっている。その謂れを知らなくても、その姿は美しい。背景に市街の家並みや中には目障りなビルが見えても、背後の山並みに際立った天守閣は、松本の清廉さの象徴である。松本市民は天守閣の残る謂れや市街の変遷を知っており、松本の中心にあるシンボルと意識しているのであろう。当然、松本城に意味のあった時代ではない、領主の支配、身分制、堀や城壁と銃眼となる窓は、過去のものである。しかし、歴史を織り成す原点と意識される。それは、現実感のない意識であり、桜の老木と同じく、生命の活力は失われた存在である。老人が憩い、昔を懐かしむ、観光客が評判を聞いて集まってくる。そうした時に桜の花盛りが彩りとなって、時を忘れた美を感じるのではないだろうか。