風致と風景 風景の視覚構造

 行動において環境を五感で知覚することが必要とされる。目による視覚で見ることに意識したところに「眺め」「景色」「風景」の異なる視覚構造を見出し、考察できると考える。見るは見えるという対象からの刺激の受容と対応している。見ることが行動に付随する知覚である点で、行動目的から環境情報を選択的に受容する意識が作用している。見ることは、ただ見えているのではなく、目的に関連する事物が知覚された時に集中して注意する。
 そこで、注目した状態の視覚によって「眺め」が知覚され、眺めるという意志的行動に連結している。一方、行動場面の環境の状態を知覚するところに、「眺め」の対象として「景色」が知覚されてくるのではないだろうか。「眺め」が主観的に外界を知覚し、「景色」は客観的に外界を知覚する点で、区別ができるのではないか。主観的眺めは行動を主眼とし、客観的景色は外界の認知を主眼とし、外界を受容し、環境適応のための判断を得ることが主眼とするものとして区別できるのではないか。
 「景色」が環境を対象化して知覚するものと定義する時、自己意識をはずしている点で、主体の置かれた場所を意識しなくなっているといえる。これを徹底して客観化すれば、「景観」に行き着くであろう。「景色」が場面で区切られるのに対して、「景観」は広い範囲の土地の状態として、様々な場所を包含した環境の状態を認識しようとする。すなわち、「景観」は様々な場所による場面の「景色」を包含しているといえるのではないだろうか。
 「眺め」が注意する対象を中心に視覚が構成され、環境が知覚され、常に主体が意識されている。すなわち、「眺め」は注意を通じて、主体と対象とが連結して意識される。行動空間が主体を中心にして成立する点で、行動に付随する注意は行動空間の範囲で意味を持つといえる。行動範囲にある事物に近接した視覚に注意が集中し、遠隔にある事物へは、そこへの到達を目的とした場合に限られて注意を要するものとなるだろう。遠隔にあるものと近接したものの知覚に注意の度合が相違し、注意の目的も相違してくることが想定される。
 眺めは近景と遠景に区別される。しかし、遠景に注意が向けられた場合にも、近景を通してであり、足元から地表が広がり、遠景へて連続している。遠景にのみ注意しようとすれば、視野の範囲に枠を設けて、枠内を区切り取ることになる。枠自体も近景の要素であるが・・・。枠によって区切られることによって、主体の位置する場所の状態を隠蔽して、対象とする遠景へ注意を集中することになる。遠景は事物の細部を形態や要素に抽象化し、事物あるいは要素の位置関係による構図を鮮明にさせる。こうした「眺め」が風景であり、「景観」に対する眺望となるものと考えられる。