場所と場面の構造 主体の知覚

 主体が行動する上で、行動する場所の環境を認知しなくては行動できない。認知の第一段階は感覚によるものだが、感覚から環境の一部としての事物を認知するために、感覚は補正されて知覚される。そして主体の行動目的によって注意される事物は影響を受ける。こうした行動に伴う環境の認知は、極めて主観的にならざるを得ない。主観的な認知には、主体が意識されている。
 環境や状況によって「われを忘れる」という場合がある。森林の中で、子供の頃の魚とりやトンボとりに、また本を読んでいて、など「われを忘れる」経験は誰もが持っている。主体に対自していた客体の中に、主体が同化する、あるいは感情移入していて生じるのであろうか。そこには主観的意識は作用していない。
 主観の中心となる自分という意識が、自己、あるいは自我と呼ばれる場合は、心理学の中心課題として取り上げられる問題となる。自分との関係として客体を認知することが、主観的であることといえるのであろうか。自分との関係として環境を認知すると言い換えれば、環境の知覚を自分を中心に統一して知覚すると感じることになる。これを哲学や心理学で「統覚」と呼ばれる。哲学ではカントに見られ、心理学では実験心理学を確立したヴントに見られるとのことである。ヴントは統覚について「心理学の認知体系をとりまとめる心的過程としてとりまとめようとした」とのことである。
 行動における環境の知覚は、主観的であるが、対象に注意が引き付けられて認知することは客観的認知となるものである。強い印象は、対象物からの作用であるが、われを忘れるのは主体の内的な意識が客観的な対象物に同化することによって生じるのではないか。環境認知の統覚は自分中心の主観性から客観的な次元へと高められているのではないだろうか。