場所と場面の構造 部分と全体

 人は部分しか見れず、人によって見る部分が違うために、部分から全体を推定しようとしても、異なる全体像を想定していることになる。このようなことを、レオヒューバーマンという人が本に書いていたことを思い出す。群盲、象を見ず、あるいは、木を見て森を見ずという言葉もあって古代からも、全体視の限界を示したものであろう。現代の個人主義、個性の発揮は、こうした限界による認識の自信喪失を払拭しようとしたものかもしれない。しかし、部分しか見ない限界を誇張することになったのかもしれない。
 環境は主体にとって全体であるはずだという想定がある。主体が環境を作り出すのだとすれば、環境の全体を作り出していなければ、環境は未完の状態である。ある環境状態に満足した時を完成とすれば、そこで、主体にとっての環境が成立したともいえる。しかし、それもまた、部分的であり、主体の活動の広がりが、より、広い環境を要求し、環境の全体を希求することになる。
 原始的生活で自然環境に適応して生存した時期を想定してみる。人間は環境と結びついて生活した点で、環境が全体であることを人間は疑っても見なかったであろう。人間は個人は存在せず、共同体の一員であり、共同体の成員が共通した環境を自然の中に見出したのであろう。共同体の生活する領域が環境とすれば、原始人も他の共同体の領域に接触して、自分達の領域を自然の一部と意識したのであろうか。環境の背後に自然という全体が支配し、人知を超えた、存在を環境の一部と理解するために、自然の神格化が必要とされたのであろうか。