森林風致 神社と公園 

 古代的な神社と近代的な公園が、近隣社会の公共的な利用の場所として共存していることは面白い現象である。しかし、環境として有機的な関係が生まれていないのは何故であろう。神社は古い共同体に依拠して成立してきたもんであり、公園は自治体による市民のための公共空間として成立したものでああるから、よって立つ社会的基盤が異なっている。しかし、古い共同体から地域社会へと変貌する中で神社は地域住民の共有地へと性格を変えたと言っていいのであろう。とすれば、公園が自治体所有であるのに対して、神社は地区所有の共有地であるという違いだけで、地区住民の利用する公共的な施設と言ってもよいのであろうか。しかし、神社境内と公園とは、空間の性格は共通しているようで、異なっている。古代的空間と近代的空間の性格の相違が持続している。神社境内の樹林は、聖域であり、公園の樹木は自然の潤いである。
 地域社会は同一であるのに、由来の違いだけで、神社と公園の空間的性格の違いが持続するのものなのであろうか。それとも、地域社会の中に古代的性格と近代的性格の両面が含まれていて、この異なる性格が、神社と公園の両方を成立させているのであろうか。であるとすれば、地域社会は、不徹底な近代化を示しているのであろう。あるいは近代化の過酷さを補うものとして、共同体社会の痕跡を維持させたのであろうか。