風景の知覚形式

 「風景」についての論議は様々な分野からなされ、「景観」と混同されたり、単なる「眺め」とも区別されない点で、あいまいな概念であり、定義は困難であるといわれることが多い。にも関わらず、多くの人が、定義を試みようとしている。私は「環境の総合的知覚が風景である」とする考えに賛同し、環境の総合的知覚が画家の「風景画」を生み出し、また、「風景画」が一般に「風景」の知覚形式を生み出すという、相互関係として「風景画」の過程を理解しようとした。
風景画は画家による眺めの観察と観察から得られたイメージの描出といえる。「眺め」の観察の一端がレオナルド・ダ・ヴィンチの「手記」に見られる。描出されたイメージの庭園における再現が、イギリス風景式庭園の創造におけるケントの関与に見出される。風景画のイメージによる環境改変である。
近代風景画の段階において風景の知覚形式を抽出して風景論が生み出された。これがラスキンの「近代画家論」と考えた。ラスキンのこの著作の影響は、日本に近代登山を紹介したウェストン、日本人では島崎藤村ラスキンの著作から影響を受けている。知覚形式によって様々な環境を風景として知覚することができることを、影響の広まりから理解することができる。
イギリス風景式庭園は、造園技術によって風景のイメージを現実化させることを可能とした。さらに、都市環境に風景イメージの公園を提供することによって近代造園の道が開かれた。現代には都市環境の中に風景形式を成立させ、都市自体に風景が知覚されるような造園技術へと転換したことが考えられる。かくして、造園は風景デザインと同義となっていったといえる。
風景形式を媒介とする環境知覚、風景形式を生み出すことによる風景イメージの現実化の相互関係の進展は、風景イメージと環境の動的な関係、個人的場面と社会的な場所の交流関係を展開させるものである。