1-1 眺望の価値

 眺望を得るには、山の上から下を見ることによるが、山の上も森林が生育していて、下方の眺望が開けた場所は限られている。平地に面した山地が草原であった時代には、眺望がはるかに見出せたであろう。
 市街に面した高台の住宅地は限られた眺望の場所である。そうすると、眺望は下方の景観を俯瞰して得られる風景といえる。高いビルの窓からも眺望が開けているといえるだろう。しかし、人工的に区切られた場所からの眺望である。眺望を妨げている人工物が、眺望を開くという矛盾があり、眺望は一部の人の独占物とされているのではないだろうか。
 平地に開けた市街地で、眺望は得られない。農村地域には水田の広がりによって眺望が得られる。農村から市街に出てきて生活する人は、かって農村の眺望を失ったことになる。また、近郊の市街化は、農地を消失させるだけでなく、眺望を失わせている。
 何故、眺望を問題にするかといえば、眺望は開放的な空間から得られ、気持ちを自由にする。逆に閉鎖的な空間からの眺めは、束縛を感じさせる。眺望は全体景観が知覚され、閉鎖的な眺め部分的景観を知覚させる。部分的な環境を連続させて生活が営まれているが、生活の全体像を実感できないことには、部分的環境の置かれた場所を位置づけが明瞭に意識されないことになる。全体像を実感する上でも眺望には価値があると感じる。
 しかし、眺望は、部分的景観の背後に隠されていて、前景の閉鎖的な部分景観を取り去れば、再生させることができる。部分的な景観の背後には空が見えているが、それは眺望の一部である。部分的な景観も空を背景としていることによって、全体との関係を感じることができるのだろう。