2-5 戦後の森林レクリエーション

はじめに
 戦後を生き、時代を体験してきたが、様々な機会に山地や森林を利用体験してきた。森林風致計画に関わり、編著の教科書を著した。これらの過程も時代の動向に結びついており、現代には顧みられなくなっているだろうが、当時の必要性としたことを鑑みて、教科書の不十分さと現代には顧みられなくなっているだろうが、当時の必要性としたことを鑑みて、教科書の不十分さと現代には顧みられうる点を見出そうと考える。

戦後の時代的変遷と森林レクリエーションの成立について
 戦後の時代的変化は急激なものであった。5年刻み、10年刻みで時代の変貌は著しく、継続的な成長を見出すことも困難である。1945年終戦後の占領と混乱期、1950年の朝鮮動乱・独立を契機とする経済復興期と産業開発、1960年に始まる高度経済成長と石炭から石油へのエネルギー転換、1970年までに達成された高度経済成長の成果、1974年の石油危機を契機とした低成長への移行と急激である。
 経済発展は土地開発をもたらし、国民の所得水準を中心として生活向上も急激な変化をもたらした。余暇の増大は、戸外レクリエーションを大衆化させ、量的な増大も著しい。高度経済期と都市拡大の進行した1960年代半ば、森林空間を対象とした戸外レクリエーションである森林レクリエーションは、場として森林空間が確保されたことが、顕在化の契機となった。

森林レクリエーション成立以前について
 戦前に田村剛による森林レクリエーション構想が示されていたことを伊藤太一氏と清水裕子氏がそれぞれ明らかにしてる。明治以前の行楽、明治の太政官布告による公園設置、森林法における風致保安林、保健保安林にも森林レクリエーションないしはその場の確保となったとみなすこともできる。また、本多静六による松島県立公園の森林経営計画などは、森林の育成を含んでいると考えられる。さらに、田村剛が関係した国立公園における利用と保護も森林レクリエーションの問題が含まれると考えられている。しかし、行楽や観光による森林利用を純粋の森林レクリエーションということはできない。国立公園の利用、保護も自然レクリエーションの中に森林部分が含まれるという問題である。
 戦後、ハイキング、登山などの利用が盛んとなり、近郊電車の利用や登山バスが運行するようになった場所もある。しかし、その場所は確保されておらず、都市拡大と共に消失したり、山地・森林の利用衰退で歩道の管理が停滞して、利用が困難となっていった。また、大衆観光の増大とともに、森林景観が問題とされるようになった。しかし、こうした森林景観も奥地の資源開発、森林開発、林業の大規模皆伐作業などによって自然破壊が問題となることが多くなり、やがて自然保護運動が盛んになってきた。

森林レクリエーション空間成立の要因について
 森林レクリエーション空間とは国有林における自然休養林などのレクリエーションの森制度、生活環境保全林整備事業、明治百年記念事業としての武蔵丘陵森林国営公園、高尾、箕面国定公園などの森林公園を上げることができる。これらは、昭和42年に発行された「自然休養地としての森林の保全開発」の科学技術庁資源調査会編著の勧告などを契機としていると考えられる。この勧告の背景が森林レクリエーション空間成立の要因を示すと考えられる。そこにはレクリエーション需要、森林地域の開発と保全が挙げられている。
 自然保護の必要(開発抑制)・都市林の要請(休養利用と都市環境改善)・施業林の利用転換の要請