風景の存在感 大地と場所の関係

はじめに
 景観の論議に存在感が無いのは何故であろう。景観が地理学の問題として客観的に認識する必要があるからであろうか、客観的であることで、存在感を失うこととなるならば、景観の実体もありえないのではないか。一本の樹木の眺め、それは単なる樹木ではない。土地に根を下ろして、生きる樹木の実体なのだ。一見、分析的に認識していることは、この実体感を失っていないかと注意する必要がある。

大地と場所の関係
大地は土地の広がりであり、主体の存在している土地が場所である。存在としては、全体と部分の関係として大地と場所をとらえることができる。しかし、意識とすれば、主体が存在しているからこそ、大地の広がりを見出すのだと考える。主体の存在する土地は、存在を実感する場所であり、その場所からの大地の広がりの知覚は何が存在するのかを意識するだけである。

社会と生活の関係
上記の存在感を、主体と環境の関係における、生活環境としての実体に言い換えてみると、環境として生活を繰り広げる場所に、生活主体は生活実感を持っているということができる。しかし、主体個人の生活は、社会との関係のもとで、社会を意識して生活環境が成立している。分業生産が展開し、経済が拡大した近代社会では、社会的な生産体制に依存して生活せざるを得ない状態がある。社会から考えると、経済、生産の局面で個人の存在は希薄となる。

認識と知覚
こうした社会と個人の関係は、一瞬の知覚における、大地と場所の関係に類似している。大地には社会活動の刻印となる景観が成立し、その眺望は、自然と人間の関係の全体像の知覚といえる。個人の生活感、主体の存在感は、社会や大地の全体像の認識と意識に、逆転させられる危険性がある。