内部と外部の関係

はじめに
 人間の主観的意識による外界の認識は、哲学上の大きな課題となっていたように考える。戦後風靡した実存主義も、主観的意識である個人が、外界である社会状況を克服するために「参加」として行動し、これが、意識を外化させる行為と考えられた。意識の外化と外界の意識化(客観)とは交流し、精神現象学として壮大な体系が構想されてもいる。こうした哲学の展開を秩序として見出すことは、哲学者でない自分に出来ることではない。ただ、こうした思考が日常生活の意識と外界との関係の思考にどのように有効であることだけが、生活者として哲学的思考が役立てられる点であろう。
 実際の生活面で、外界の認識と意識の分析は、心理学の問題であり、生理学や脳科学に関連し、広い人間科学の展開を見出せる。動的な意識と外界の関係も、環境心理学の範疇に含まれている。
 以上の点で、心理学は哲学にとって換えられるような幻想も生じてくる。しかし、思考そのものと思考を対象とする科学とは相違していることは確かである。哲学は思考を対象とする科学ではなく、思考そものと考えられるのではないか。哲学者ではない自分は、哲学者にそのような疑問をぶっつける。哲学者は生活者の疑問となる思考に答えてくれなくては困る。
 内部と外部の関係の出発点は、意識内部と外界との関係であるが、外界が多面的で、多層な広がりをもつ世界であれば、それに伴って、外界の意識化に向けた思考の広がりが生じているのではないかということが、本論の課題である。

意識の内省
 意識を内省して明らかにしようとしたのが、カントの哲学ではないだろうか、内省は哲学上の批判として、理性と感性、純粋と実践における3批判哲学、純粋理性批判実践理性批判判断力批判が著された。意識の客観性はカント以前の哲学者が取り上げた問題だった。心理学の展開は、意識を内観によってとらえる方法を生み出したのであろう。
 こうした過程は、近代的個人は、孤立した主体を前提とした点で、主観を重視し、その内観における、自己確立の困難さを露呈したのであろう。自己確立も社会的関係の中での成長過程なしには成立しえず、孤立した主体は、仮定された理念であったということであろうか。しかし、民主主義の理念の根幹が、独立した個人であることを考えれば、孤立した主体が仮定として否定される問題ではなく、理念として肯定的に考える必要がある。
 主体ー個人ー主観ー自己の関係を日常生活の中で考察する時、混乱が生じているのではないだろうか。自己喪失、主観による独断、個人の権利の侵害など、不条理な状況に遭遇することは多々であることが、混乱した状況を示している。こうした混乱の要因は、個人の置かれた社会的状況から生じたものであり、内省に留まることはできず、外界の要因へと眼を向けざるを得なくなる。

意識の外化と外界の内化
 人の行動を通じて、外界に変化を与えることで、意識は外化することになる。また、外界を認識することは、外界の内化、意識化となる。意識の外化と外界の意識化の交互の関係が、社会的な変動を生み出していくところに、精神の弁証法的な展開を見出そうとしたのが、ヘーゲルであったと考える。この考えによれば、外界となる環境は人間の意識を媒介に成り立っており、人間から離れた環境となる外界は存在しない。外界は知識の蓄積によって意識化され、環境として創造されている。

外界としての環境
 しかし、人は感覚を通じて外界を知覚する点で、意識内部と感覚に刺激を与える外界とは対立的な関係である。外界は人間の意識ではなく、存在である。人はその存在を意識したり、改造したりはできるが、存在そのものを変えることはできず、その存在に従って生きているだけと考えられる。人の変えることの出来ない存在としての外界とは、自然環境であろう。自然環境を意識化はできるが、作り出すことはできず、自然環境にどのように適合できるかが、人間が存在することの条件である。人間の意識によって生み出されたかのように見えた環境も、自然環境に適合することがなくては、持続しえない外界といえる。