風致景観

はじめに
 国立公園管理に当たる環境省関係者から「風致景観」という言葉を聞いたが、どのような意味が込められているのか、法律用語としてどのように使われているのか、確かめていない。いずれ、確かめたいと考えているが、少し、仮定として風致景観の意味を考えてみたい。

風致景観とは
 景観は地理学で定義され、土地表面の状態であり、自然的条件と人為的作用によって生み出された状態と判断される。この景観は、眺望の広がり持つ風景として知覚される。風景はそこに出向いた人の知覚であるから、人が行かない限り、存在していても知覚されない。景観を土地利用によって形成している住民は、景観を風景として知覚するであろうが、景観を観照的に知覚する風景は、生活環境、生産環境の知覚の一部であると考えられる。
 人がそこで生活している場所では、生活体験として風致を五感で感じるのではないだろうか。この風致がどのような意識なのか、場所のどのような状態と結合しているのかは、明らかではないが、人それぞれが、場所の状態に風致を判断して、風致を感じている。この風致の定義は、最近、清水が確定して提示したものである。
 ここから、景観と風致の関係を考えてみると、風致は個人のものであるが、生活や生産活動は社会的に結合し、土地利用として景観に反映している.住民生活の社会的結合と場所の状態としての景観は、個人個人が風致を感じる共通項となってくるであろうことは推定できることである。住民の日常生活の場面に共通項としての風致があり、風致を通して、景観を風致として知覚するといえるのではないだろうか。

国立公園の風致景観
 国立公園の選定は、日本の代表的な風景であるとの評価から行われてきた。風景は個人の知覚であるが、国民多数の視腺が、国土景観の中で特徴的な区域に集中することをもって代表的という評価が得られることが考えられる。すなわち、景観を類型化し、その類型の中から最も特徴的な場所を選定する。その選定には国民的評価として、多くの国民の風景観照の評価が得られることを前提としていると考えられる。類型としてどのような風景が注目されるかは、風景意識の進展と関係しており、意識変化に即応してている。すなわち、日本的な海岸風景、宗教的な火山風景、登山の場としての山岳風景、西洋的な高原景観、未開発な原始林風景、別世界の海中風景、、野鳥の生息する湿原風景などであり、こうした風景の発掘は、時代的要請に即応するとともに、知識人、文化人などによって誘導されてきたといえる。その中心人物として田村剛を上げることができる。
 国土的な景観類型から代表的風景を評価して設定された国立公園は、地域制による指定によって行われることが、日本の制度の特徴である。土地所有とともに土地利用、資源利用などの景観に影響を与える要因そのものを包含して、国立公園が設定されている。これは、景観の持続、保護のために、開発との対決や調整を恒常的に問題として抱えていることになる。現に開発に対する自然保護が、国立公園の重要な柱となっている。一方、土地利用による景観形成と維持は、国立公園管理に無形の効果を発揮してきた。
 土地利用は住民生活との関わりの中で成立しているとなれば、国立公園区域内に生活環境の風致が介在する区域が生じていることになる。国立公園の中核をなす自然風景も、地域の生活環境に連続したものとなっている。そこに、国立公園の景観に風致を感じ、風景を観照する、利用者の導入口となる視点が生まれているのではないかと考える。
景観は単なる景観ではなく、風致が判断される景観である。

自然景観のもたらす風致
 人の生活環境の介在によって地域の共通項となる風致が見出されるとする仮定は、自然景観にとっての風致には当てはまらなくなる。一本の樹木に感じられる風致から考えてみよう。木は大地に根を下ろし、陽光に向かって梢と枝を伸ばす。この樹木は場所の状態によって成立し、成立することによってその場所の状態を生み出している。樹木の成長は場所の状態を連続させ、場所と樹木の相互関係を緊密なものとしていく。もし、その場所が樹木が存在しなかった状態の風致から、樹木の存在とその成長は、場所の風致を高めているものということができる。