森林風致計画学

 私が編者となって、森林風致計画学が出版されたのは1991年であった。その初版からまだ、170冊の在庫を残している。信州大学において、清水さんの担当で斬新となった森林風致の講義も、今年度でなくなってしまうことになった。
 東京大学の悲願であった森林風致計画学講座は、昭和48年に設置されており、この同時期に信州大学東京農工大学にも同名の講座が設置された。これは東京大学の努力の賜物であったろう。しかし、信州大学では、昭和63年に林学と森林工学の2学科を併せて森林科学科が設置され、大講座制を採用するなかで、森林風致計画学講座はその名称をなくしてしまった。東京農工大学も現在ではなくなっており、東京大学のみに森林風致計画学講座が存続している。
 私は、ただ、森林風致計画学の名称の本を書いただけで、講座や研究室もなくなり、講義も無くなった信州大学で、森林風致計画学から森林風景計画学が本来であったとする東京大学の塩田先生の見解をとやかく言う資格はない。しかし、現在も森林風致計画学のために、学び、研究を希望する学生がいることに、大きな責任を感じている。同時に、森林風致を主題として博士論文を書き、造林学を機軸とした森林構造と心理学などの進展をもとに人間側の知覚、認知の関係によって成立する森林風致の実態を科学的に分析しようとして挑戦する清水裕子氏に、森林風致計画を持続させる後継者として期待している。
 私の編集した森林風致計画学は、林業を機軸とした森林風致の課題を、深めていくために、林業から森林と人間との関係に広げ、森林と人間に関する新たな知見(科学の進歩)に依拠して、概観することに留まった。森林環境における人間の風致意識を明らかにするための知見は、知覚心理学に負うが、さらに認知の意識までを問題とする環境心理学は、未熟であった。経験的な知見、その結果、主観的な内省に留まることしかできなかった。その後、森林環境の心理的影響は、新たな知見の進展と調査方法によって、若い研究者が取り組んでおられることを傍観してしまったことに自責している。森林風致計画学が風前のともし火のようになっている現在、森林風致計画学の意義を明らかにして、再興のきっかけを私より若い人々への協力のもとに、作りたいと考えている。
 森林風致計画学の名称は、塩田先生の言われるように森林風景計画が間違ってつけられたものであろうか。たしかに、田村先生の昭和5年の著書の題名は「森林風景計画」であり、戦後にも、昭和36年の造園技術の1章には「森林風景計画」となっている。私自身も昭和53年の造園技術大成のなかで、分担した章節を、森林風景計画としている。
 しかし、森林風致計画学講座の由来は、森林風景計画を誤って使ったのではなく、昭和41年の科学技術庁資源調査会による「自然休養地としての森林の保全開発」に依拠するものと考える。そこでは、風致施業教育と風致施業技術研究の必要が指摘され、風景の装飾としての森林と森林の美的効果を生じさせるものとしての風致を区別し、フォン・ザリッシュの森林美学から引用して、森林風致の教育、技術研究の必要を意義付けている。岡崎先生はこうした社会背景から森林風致研究に取り組み、昭和45年に、「森林風致とレクリエーション」の著書を著している。また、昭和49年の「造園事典」には、森林風致の章を設けている。
 では、何故、「森林風景計画」が田村先生以来、連綿と継続してきたのであろうか。造園学、造園技術の応用によって森林の休養地計画も可能である。これは、敷地計画の範疇である。敷地計画の一部に風景計画が含まれ、森林を対象にした風景計画が行われることになる。田村先生は、国立公園のようなスケールの大きな森林景観の休養利用の場への造園の応用として森林風景計画を位置づけていたのではないだろうか。
 一方、森林風致の育成は、造林学、林業技術の問題であり、そこでは、森林風致がふさわしいものといえたのであろう。森林風致は、人間が森林に入る条件を作るうえで造園の応用が必要であり、森林を育成する上で林学サイドからの森林美学、森林風致の展開を必要とするといえる。森林風致計画は造林における美的配慮といえるが、美的配慮のなされた森林が、どのような風致効果を発揮するかという点で独自の分野を考える必要があり、森林美学を生み出し、森林風致を人と森林の関係として論ずる林学の一分野を構成する必要があったと考える。