四国巡礼

はじめに
 新居浜市に生まれ、小学校の5年の初めまで過ごした。戦後の貧困な時代に物資も食も不足した時代だった。しかし、山と海に近く、水田の水路の豊富な流れに、魚がすみ、トンボが育った。子供の頃はそれだけが世界だった。今思えば、海は港で、波もなく、海らしくはなかった。山は四国山脈につながっていたが、丘陵の山麓薪炭などの採取で森はなく、山ともいえない場所であった。四国山脈は冬に白く、木枯らしを吹きつける遠くの厳しい風景でしかなかった。四国を出ての変転は、幼い小世界からの旅立ちだった。帰る故郷はなく、故郷の変貌は、帰る場所を無くしてしまった。年老いて、落ち着く場所もなく、旅は終わらないのであろう。
 四国山脈を巡る旅は、幼い頃の小世界の背後にあった外の世界が何であったかを知ることが出来るのか、四国を取り巻く様々な海辺が、小世界の変幻を教えてくれるのか。それを知ることに何の意味があるのかと、興味と懐疑とが行き来する。四国巡礼は、八十八箇所の霊場めぐりとなるが、虚心となる巡礼への出発には、魅力がある。

巡礼の円環
 実現せぬ旅の憧れを、仮想のことばの旅でたどってみよう。人生が旅とすれば、生から死への回帰することのない時の流れである。しかし、一時的な旅は、空間的な円環の移動で、出発した場所へと回帰する。回帰することない旅は、放浪なのであろうか。人生は、帰らぬ放浪といえるのかもしれない。しかし、無から生が生じ、生が死となって終わるとき、無に帰る点で、無から無へと回帰する旅といえるかもしれない。
 旅も一瞬一瞬の一歩一歩から成り立っている。一瞬の一歩も旅に踏み出している。それは、回帰する旅なのか、彼方の分からない放浪なのか、四国遍路もこの一歩一歩から成り立っているのだろう。鎖国山脈を巡り、果てがないように見えながら、回帰する、放浪とも、旅ともいえない、行脚なのだろう。ただ、一日の行程は、宿から宿へ、いくつもの霊場を巡って、いき、円環は、止めようとする意志がない限り、終わることはない。
 終わりない、旅にも出発点はあった、出発点が目的地になって一つの円環が生まれるが、目的地はまた出発点でもあって、果てしなき円環にとらわれていくのではないか。時間は止めようもなく進むだけであり、生の始まりは、生を終える死の瞬間に向かっている。旅の始まりは、旅立つ意志によるものであれば、意志の喪失が旅の終わりである。意志が喪失しない限り、旅は続けられ、終わることがない。生から死への直線的な時間の流れは、旅の意志による円環によって、放浪の人生を旅の永遠の持続に導く。

自然の循環
 太陽に向かう地球の時点が日夜を作り、太陽を廻る軌道が一年間の季節変化を作り、時間的変化が繰り返される。人間の生活を循環させ、時間の進行を繰り返す変化の循環に意識させる。定常的な生活空間に山から海、海から山への移動の変化をつくり、円環の小世界を作り出している。円環の小世界は、農村集落に帰着し、四国巡礼は、各集落の山を取り囲み、海に広がる小世界の円環をさらに広げた旅の円環で結び付けている。村の住人は、旅人を迎え、また送り出すことを、繰り返して、巡礼の旅を成立させている。

帰結
 論理もまた、疑問と結論の循環による推論である。仮想の四国巡礼を実現する時はあるのだろうか。