日本の庭ことはじめ2

庭の観照
 日本庭園に関する本はこれまで、数多く出版されている。歴史をさかのぼって様々な時代に庭園が作られ、現在まで残された庭園も数多く存在している。数多い庭園の本は、残された庭園を鑑賞する読者のためのものも多いが、それは著者の鑑賞記録でしかない。残された庭園は庭園を生活の場として作ろうとした人とそれを実現するための技術者との関係によって創造されたものである。そこで、一つとして同じ庭園はないはずであろう。また、庭が生活の場であるなら、鑑賞者が突然現れて庭を見て、何ほどの知識があったにしても独りよがりな鑑賞でしかないといえる。昔、清水寺成就院の庭園見学をしたとき、成就院の方にはお寺の普段に使っている座敷に入って御迷惑をおかけしたことが、思い出される。拝観料も取らずに快く見学させてはもらったが、鑑賞することが庭から遊離していることで、落ち着くことはできなかった。庭は鑑賞されるためにあるのではない。
 古い庭も誰が作ったか定かでないものもある。また、作った人の意図が何であったかも理解できない場合もある。しかし、現存する庭は、生活の場として使われる空間であり、それを維持するために手入れが行われている。かっての庭の様相も持続しながら変化しているのであろう。もし、庭を鑑賞する場合は、現在の状態が目に入るだけである。現在の人がどれだけ以前の庭の姿を尊重しているかによって、過去の庭の姿を想像することができる。しかし、現在の生活が過去の庭の姿を維持するのに不適である場合には、庭の姿の維持のために生活に負担がかかっているのだろう。鑑賞した庭からその住人の現在の生活が浮かび上がってくる。
 岡田さんの本は、庭を造る人がどれだけ生活を楽しみ、そのために努力を惜しまなかったか、それに、いかに庭園技術者が応えたかを、述べている。

日本の庭の構成
 庭を何故作るのか。岡田さんは自然を破壊してところに生活の場がある中で、自然をいとしんで庭が造られたとはじめに述べている。庭は人と自然の関係における文化として必要性があると主張している。人と自然の関係は農業であり、文明発祥の基礎となったことを考えれば、生産関係を中心にした社会を媒介とする間接的な自然との関係と生活の場における自然との直接的な関係が作用している考えられるのだろうか。これは、下部構造と上部構造との関係ということになる。庭は上部構造の所産であり、夢想的な理想環境の現実化であると指摘している。
 岡田さんの庭論には、生活の場と自然環境との関係が庭を展開する動力として構成されている。第1章は近・現代の庭で数寄者と庭師が生み出した庭の魅力を取り上げている。第2章は自然を造形するとして、庭に作用する人と自然の下部構造における関係を述べている。自然環境自体も人の生きる基盤として原初的な下部構造と位置づけられるだろう。第3章、第4章は社会構造の時代的変遷における文化としての庭園型式形成の系統を述べているといえる。第5章が庭園の様式が述べられ、各様式のデザイン的な特徴を指摘している。第6章に庭園デザインを構成する材料について述べられており、自然素材を加工し、新たな自然環境を再構成する技法に触れている。

示唆されるもの
 この本が示唆しているものはなんであろうか。個人的なものとしての庭を文化としてとらえて、論議の場におくことではないだろうか。生活環境の豊かさに庭園が寄与するために、また、自然との疎通をはかる場として庭園を位置づけるために、これからの論議が待たれるのである。