イギリス庭園

はじめに
 イギリス風景式庭園の源流が中国か東洋にあるのではないかという論議は古くよりなされている。中国や日本の自然のような庭に西洋人は西洋人が感じられなかった美があることに気づいた。その美は「しゃらわじ」という特別の言葉で表わされることも論議となった。イタリア風景画を模範とした庭園、イギリス風景式庭園が西洋で一世を風靡し、そこでの美の追求は「ビュウティフル」と「サブライム」の論争と「ピクチュアレスク」の美の唱導が行われた。近代の住宅庭園に受け継がれ、「アーツ・アンド・クラフツ」運動や機能主義の流れの中で、洗練された「近代的な様式」としての美を生み出した。現代の庭に展開する中で、機能主義、抽象芸術、日本庭園の要素が重要と指摘され、東洋の伝統的な日本庭園に注目が集まった。
 こうした展開によってどのような現代庭園が展開しているのか、その流れはわからない。見聞によって流れや花壇に自然を再現したようなデザインが見出され、日本庭園とのつながりが感じられるのである。また、日本においては近代化において、近代の生活様式が導入されると共に、西洋庭園と機能主義による戸外室の庭への関心が高められた。また、高度経済成長後の生活のゆとりはイギリス庭園や潜在するイギリス的生活様式に、日本人の関心が集まり、庭園見学ツアーや国内でのイギリス庭園の建設、イギリス人庭師の活躍も見られるようになった。その作る庭は、日本庭園以上に自然風であり、科学的技術に裏打ちされている。

ジョン・ブルックス氏の示唆
 ジョン・ブルックス氏の作庭書は数冊の著書が翻訳されて出版されている点で、著名なイギリスの造園家といえるだろう。その著書は作庭のガイドブックが多く、イギリス庭園に限らず、様々な様式の庭園の作庭デザインの方法が記述されており、ブルックス自身が様々な様式の作庭を行っていると思われる。イギリス庭園は、世界的な気候風土に適応する様々な庭園様式を包含するような展開に到達したのであろうか。
 造園はその作られる場所の条件に適合したデザインによって戸外居住環境を形成する必要があるだろう。今日、多様な場所、多様な生活様式の選択が可能とされる状況が生じてきて、様々な地域の庭園様式を取捨選択したデザインの要求があるのだろうか。しかし、それはイギリスならば、その国や地方の気候条件からは抜け出すことができないはずである。イギリスの植民地の世界的広がりによる、イギリス人、イギリス的生活様式の世界的広がりによって、造園の世界様式を必要としているのであろうか。
 日本人にも、様々な庭園様式の提示は作庭の際に役立てられそうに見え、それが、ブルックス氏の著書の翻訳を多くしたのかもしれない。しかし、日本人における住宅を見る限り、様々な国の建築様式が混在するまでに至り、日本住宅の姿はその混在に隠されているようであり、庭園はこうした建築様式に付随して作られている。日本人はフランスやイタリア、イギリスやドイツ、アメリカ、あるいはエスニックの多様な建築、庭園、ひいては生活様式の中に、日本建築、庭園、生活を見失っているように見える。そして、これこそが国際的に交流する現代文化なのだということもできる。
 ジョン・ブルックス氏は信州蓼科にイギリス庭園を設計しており、そこで講演などを行ったことがある。施主の山田氏の話では、ブルックス氏は日本でイギリス庭園を作ることに疑問を呈したとのことであり、イギリス的生活様式への憧れから依頼したことで納得したとのことである。なお、設計にあたっては、蓼科の気候風土にあった庭園のために、住宅の壁の色彩が土地の土壌の色に適合するように配慮し、使われる植物は、イギリスから導入する一方で、土地固有の植物や樹木の導入にも積極的であったということである。イギリス人の庭師やレンガ職人を招来して、イギリス人が作る本来的なイギリス庭園が誕生したのであるが、ブルックス氏が心配したように、日本人が住んでいることの違和感を否めない。あくまで、憧れのイギリス庭園なのであろう。
 ジョン・ブルックス氏とわずかだが話す機会があったが、日本の造園の教員はどのような教育を行っているのかと、質問をされた。世界に名だたる日本庭園は、現在どのように展開しているのか。それに答えるには恥ずかしい言い訳しかできなかった。イギリス人が作るからイギリス庭園ができるのだというのが、ブルックス氏の基本的な考えだったようだ。世界の多くの庭園様式は、イギリス庭園の気候風土に適応するための材料であったのだ。日本庭園もイギリスの造園家には租借するための材料であり、そのままを模倣することとは相違しているのであろう。
 日本人が日本庭園を造る。イギリス庭園を造ることはできない。これが、ジョン・ブルックス氏の示唆であり、ジョン・ブルックス氏はあくまでイギリス庭園を造る造園家なのである。では、日本人にはどのような日本庭園が持てるのか、大きな課題が残されている。