原体験と原風景

はじめに
 われわれは小さな頃からの経験を積み重ねて生きている。そうした経験の積み重ねのなかで、現在の行動形態や性格に影響している経験を原体験と言ってよいのであろう。奥野健男:文学における原風景は、文学者の作品が作家の経験に基づいて書かれている点での、育った環境における経験の影響を問題として、作品に表れた育った環境が、子供の頃の原体験として作用していることに注目している。その原体験の条件としての環境は、作家の時代と社会、地域の自然条件などであるが、子供の目を通した体験として、なにか生存に関わる普遍性を持っていることを示唆し、それを原風景と称したといえる。
 経験の蓄積は、記憶として心理学で問題とされるが、どのような記憶が現在の行動に影響を与えるかは、大きな仮説の問題であるといえよう。自己形成から環境の構造的認識まで、いくつもの仮説が、学説して提示されている。こうした、仮説に原体験や原風景の論議は、事例的、経験的な課題を概念として付加するのであろう。われわれの日々の行動は、過去の経験に依拠していることが解明されて行われるわけではない点で、その行動の経験を理解するだけの問題として、学説を利用するに過ぎないといえる。そうした点で、経験的な原体験や原風景は日常的な表現で取り上げやすいといえる。

思い出の再現
 原体験自体も回りくどい表現とすれば、記憶を「思い出」という言葉で言うこともできる。思い出の場所の環境が、原風景とすれば、育った場所として「ふるさと」という言葉で言うこともできるだろう。これは逆の言い方で、「思い出」が原体験で、「ふるさと」が原風景なのであるといった方がよいのであろう。
 記憶が薄らいでいくことは、「思い出」の喪失である。記憶は自分の経験として過去から現在までの経験が連続している。「思い出」の喪失はこの記憶の連続性の切断を意味している。行動は意志によって行われるが、環境を条件として実現される。これを経験として、記憶となって集積しているとなれば、環境の持続は、記憶の再現ととともに、行動の意志に作用する。場所の記憶としてふるさとは、思い出と一体となっているが、ふるさとの持続は、思い出の再現の契機を提供する。