農学への混迷

はじめに
 私が大学で農学部を志望した理由は、不明確であるが大きな期待を持って進学したことは確かである。高校までの悩みであった個人の自立によって如何に生きるべきか。これは両親からの自立であるなら、職をえる手段として大学で学ぶことである。しかし、社会的に考えた時、社会、あるいは体制に従ってしか生きてはいけない。すなわち、自立はまず、社会に従う中でしか得られない。近代の社会を構成する理念は、個人の独立と自由、平等、平和であるのに、自由は社会に地歩を確保することなのだ。社会的な経済の不平等や権力の構造とは反しているのではないか。
 こうした社会的不自由に、ロビンソー・クルーソーの離島で暮らす独立した生活に理想の可能性を感じたのかもしれない。戦後の食糧難で苦しむ生活を体験したからかも知れない。社会から自然環境に自由を束縛する条件を置き換えて農民の生活を体験していないで憧れた。弁証法の範疇に言い換えると、人間と環境との交互な関係を社会から自然へと拡張しただけかも知れなかったが、何か、展望を見出せるのかと期待した。

開拓のための技術としての農学
 土地もない個人が農民となるためには、どうすれば良いのか、それは開拓を行うための南米への移住がある。ロビンソー・クルーソーを体験できるかもしれない。こんな子供っぽい空想は、社会への反発と逃避があったといえるだろう。移住に未開の土地はなく、先住の住民がおり、そこへの進出は体制の力を借りてしか行い得なかった。移住が人道的であるためには、困っている人への奉仕活動でしかないのだ。
 大学に入り、早速に安保騒動あるいは闘争を体験し、また、明治以来に開拓された北海道の人々の厳しい生活に触れていく中で、空想は、破綻していった。しかし、混迷を深めながら、実学としての農学に期待を抱いて、専門へと進んだ。
 北海道の開拓は、明治になって困窮した農民、身分制の庇護を失った士族の移住によって行われ、言うにいえない苦労をされたこと、屯田兵や囚治監などの国家的対策として、進められたことなど、話につきないが、内地に比べて農地の規模が大きく、豊かな農業地帯、北海道の人々の気さくで大らか人柄など、開拓の苦渋は話には聞いても、実感されることはあまりなかった。農学校の開設は北海道の開拓の一環として、アメリカの農学の導入のために行われた。しかし、農学部が農民にどれだけ貢献したのかも、実感することはなかった。戦後の開拓地は、困難な場所や奥地で、学生時代の旅行で、その困窮や放棄地などを見聞きすることがあったが、大学がどのようにその改善に寄与したかを理解できなかった。
 農学部に在籍し、農民にいかに役立つのか、農民の状態をいかに認識するのか、という目的意識は明確にならないままに、大学を終えた。
 
官僚育成の農学構成
 明治維新は官僚体制を整備し、近代化を進めることであった。大学の目的には官僚となる人材育成があり、西欧の科学、技術を身につけて産業を指導できる行政機構を担う必要があった。外国人教育者の導入と、教員の海外での勉学が行われた。われわれが学んだ農学の中でも林学であるが、そうした黎明期から3代か4代をへた教員からのものであった農学部は個別な産業分野を学科として設定され、農学、畜産、林学などであった。これは工学部でも同様で、当時、鉱山学科が消滅の危機にあった。これらは、産業に依拠した学科構成によって各産業部門を指導する行政機構を担う人材育成が主目的であったことによるのであろう。
 こうした教育目標とともに、科学技術としての分野に応じた、研究と技術開発が要求され、西洋に学んだ学問を、日本の現場に置き換えて新たな研究に取り組む必要もあった。さらに、何代かの研究蓄積の改良から、固有の学問体系あるいは系統的な研究成果が生まれてこなくてはならなかった。その場合に、産業技術の進展や再編に応じて、より基礎的な科学に依拠する必要が起こったと考える。専門の科学的根拠が問題とされてきていた。
 学生から大学の職員になって、大学紛争が始まると、大学内部で学問の意義が問われることになった。専門分化した研究分野の総体的な位置づけが問題となった。農学原論に注目され、飯沼二郎氏の講演に農学は農民のためにあるのではないかに衝撃を受けた。これまでの農学、諸分野は、古い官房学に由来していたのか。そこから、脱皮する上で科学的根拠が問題でもあったのだろう。

農学の生命科学への転換
 高度経済成長後の停滞の中で、学部の再編が問題とされたが、農学部では農業の衰退と関係していたんのだろう。農学が農民のためになったのか、と問う内に、日本の農業が衰退し、農民人口の割合も激減した。こうした中で、産業政策としても巨視的な経済政策に左右され、比重低下が顕著となったといえる。
 信州大学農学部、戦後、専門学校として設立され、新制大学として編成されて、出発した。当初、農学科と林学科の2学科であったが、農芸化学が新設され、農学科の拡充改組による園芸農学科と畜産学科、林学科の林学科と森林工学科の5学科となって展開した。学科はさらに分野毎の小講座があり、学科講座制の構成であった。各学科、各講座はそれぞれ専門の資格などの取得ができ、また、職業分野、行政専門職に該当し、卒業生を送り出したといえる。
 しかし、こうした拡充期から縮小再編期となって、学科の併合と大講座制が要求されることになった。そこで、生物生産学科、森林科学科、応用生命科学科の3学科となった。こうした名称は、産業や職業分野とは一致しないものとなった。
 農学部は土地という自然資源に依拠する第一次産業のための専門技術を対象に研究教育を展開してきたといえるが、農畜林の産業の名称が消えて、生物、森林、生命と農学の基礎的要因を主軸に掲げた。森林は生物によって構成される生態系を形成し、環境として人間の生活から関連するものである。生物生産学科は、食料生産学科に名前をかえ、生活に利用の根幹となる食料の名称を掲げた。
 生命、生物、生活は、英語ではLifeであり、生命科学として統一して考えられる。農学は生命と環境との関係を、人間の食料、生活に普遍的に役立てるための応用科学となったのであろうか。しかし、学部名が農学部であり、産業由来の名前を残している。産業の担い手、農民のためにを自覚するものであるのだろうか。そうでないならば、基礎科学としての理学部との境界は不明となり、理学部への併合が必要である。応用として人間の生命に重点を置くならば、医学部、薬学部との境界も不明となり、生命科学に収斂するのではないか。農学部の理解に混迷が深まり、実体は消失しようとしているのであろうか。

展望
 基礎科学と応用科学の境界が不明確になっていくことは、応用先となる人間の有用性が問題となり、自然科学と人文科学の境界も不明確となっている。個々の人間の知能が、広い知識を包含しているように、科学の体系的知識の包含によって総合的な応用科学と基礎科学の融合として働く、知の体系化が見出されると、無謀にも言ってよいのであろうか。生きるための知恵として科学が役立ちうるために、何を目指していけばよいのか、回答は簡単には見出せないが、模索し続けることは必要だろう。