森林美学の背景(2)

はじめに
 フォン・ザリッシュ(1846-1920)は1866年、エーベルスワルド山林学校に林学を学び、森林管理に携わり、林業経営を自ら行って、1885年に森林美学を著した。エーベルスワルド山林学校は1830年に創設され、その創設には林学の創始者のハルティッヒが関与してるということである。林学創始者の時代から半世紀を経て、ザリッシュは林学を学んだことになる。丁度その頃、日本は明治維新となり、近代化のために西洋の科学や制度を学ぼうとした。松野あきらは1872年、エーベルスワルド山林学校で学び、日本の森林制度の確立にその知識を役立て、東京山林学校の開設を進め、ドイツ林学の導入者となったそうである。やがて、東京大学農学部林学科となってそこで学んだ新島善直はザリッシュにも教示を受け、日本に翻案した森林美学を出版した。1906-1921年、エーベルスワルド山林学校の校長となったメーラーによって1922年、恒続林思想が出され、恒続林によって森林美学も実現できるとした。
 森林美学がどんな時代の背景で生まれたのか、林学の歴史の中で位置づけたのは、今田敬一であるが、さらに広い時代背景や地域環境などは論じる人がいなかったのではないか。今日、ドイツ文学を専門とする大澤先生と話が出来て、その輪郭が少し得られた。

ユンカー
 フォン・ザリッシュが1000haの土地を所有し、林業経営を行うことができたのは騎士階級(ユンカー)であったからだという。ユンカーとはどんな立場か未だ学んでいないが、中世の階層社会の下部が村落共同体であったので、その小領主と考えれば良いのかと想定している。農民開放が遅滞する中で、地主としての地位を拡大し、農業経営にも乗り出したのであろう。一方、商工業の発展で市民層が勃興していくと、零落する層も生じたのであろう。
 騎士階級の上部にさらに広大な領地を支配する領主がおり、騎士階級はそうした領主に主従関係が結ばれ、領主の上部に王が位置していたのであろう。さらに王権の上に、皇帝が選ばれ、神聖ローマ帝国を成立させていた。王権が失われても領邦として連携して連邦国家ドイツ帝国を構成した。ユンカーは地主としての立場から帝国の基幹的な人材となって働いた。近代化、産業革命の進展とともに、資本家と労働者の階級分化、中流階級の出現、地主階級の持続が見られたであろう。ザリッシュはユンカーの立場で、森林を所有し、経営しただけなのだろうか。

森林官と林業経営
 フォン・ザリッシュは予備士官として普仏戦争に従軍し、その後、森林官試験に合格して、国有林の管理に従事したのであろうか。林学が官房学であったという由来は、領邦国家国有林管理の確立に林学の創始者が精魂を尽くし、学問体系を確立した。黒田によれば、林学の確立以前は、森林は狩猟官の管理に任され、森林に生産的な価値は認められず、売却の危機のも直面したこともあったということである。林学の創始者の努力と林学体系による専門学校、大学における教育と研究によって、森林官の地位が確立し、林学はさらに進歩していったのであろう。
 黒田によれば林学が科学として官房学から離脱していく上で、ユンカーの森林経営が基盤として見出せるということである。それが何かは、黒田の論によることとして、ユンカーが森林経営を展開していくことが増大したのであろう。こうした中で、フォン・ザリッシュがポステルの10年間の森林経営のもとで森林美学の基礎を確認したのであろう。そして、他の多くのユンカーの森林経営は経済性の追求を主眼とし、そこに、林学の進展の根拠が生じたと言っているのではないだろうか。
 
シレジア地方
 大澤先生の話によれば、シレジア地方は鉱山との肥沃な農地、豊かな森林に恵まれた地域であり、プロシアがこの地域を獲得することによって、非常な利益を得たとのことであり、マリア・テレジアのオーストリアによる地域回復の7年戦争(1756-63)が生じたとのことである。一方、ポーランド人の進出や、ユンカー制による貧困層の流出なども生じ、係争の地域ともなったといえるのだろう。現在はポーランドの区域となっており、ドイツ人はベルリンなどに流亡していったということである。
 
郷土保護連盟
 森林美学の著書の中に、啓蒙主義時代のレッシングやシラーなどの文学者の名前が現れており、ヘーゲルなどの哲学者、フェヒナーなどの心理学者など、美学を構築する上で、必要な分野に造詣を深めていたことがわかる。ナポレオン戦争後、民衆の自由が増大する中で、読書クラブをはじめ、様々な自由なサークルが中流階級を中心に形成されるようになり、民衆の教養が高められた。それは、・・協会などの組織による社会運動に展開するまでに到る活動までが含まれたと考えられる。