辺境の旅

はじめに
 現代には辺境は存在しない。地球は丸く、どこにも人が住み、情報は行きかっている。最果ての地を求めて旅したことが若い頃、何度かある。知床、奄美、与那国、小笠原がそれである。しかし、やはり、最果てや辺境は無く、海や国境の隔たりはあっても、その向こうには次の世界が見えている。知床、奄美は学生時代に、与那国、小笠原は休暇をとって一人旅で出かけた。向こうの世界に何が見えてきたのか。

知床
 知床は人跡からの境界にあり、向こうに見えたものは原始林であった。風景として北方諸島が海の向こうに見えた点では、国境を越えた外国であったのかもしれない。原始の森には先住者たるヒグマがいて、沢をのぼるサケやイワナは彼らのものなのであった。淋しい番屋がサケ漁の季節のために海岸に見られ、森林を切り開いた開拓民の住居が廃屋となって残っていた。自然の厳しさと人の生活との限界の接点であったのだ。

奄美
 奄美が返還になってあまり年を過ぎていなかった頃である。北海道にいたせいで、内地と区別していたのであまり違和感はなく、内地から帰ってきた床屋さんで散髪して話していると、日常生活の相違もなかった。異なる点は見慣れない樹木であった。ヘゴなどには驚いた。奄美に至るトカラ列島で見たさんご礁にも驚いた。また、奄美のハブの恐ろしさを博物館のような場所で教えられた。見えたものは亜熱帯の自然の一端であったのであろう。

与那国
 沖縄が返還された翌年ぐらいであっただろうか。石垣島から西表島そして与那国島に渡った。石垣島にはさんご礁が発達し、色とりどりの魚や様々な貝類など海中の世界は魅力的であった。石垣島には内地から若者が大勢やってきて、民宿などに大勢過ごしていた。また、住み付き始めた人にもであった。その頃、大学紛争後の時期で、東大が入試を行わないなどと混乱した世情のなかで都市から逃避した若者であったようだ。辺境は社会からの逃げ場であり、新たな世界をそこで見出そうとする場所であったのだ。
 与那国ではさらに隔絶し、台湾との国境を望見することができる。断崖の海岸に波が激しく打ち寄せる島であった。民宿には多くの若者が逗留して生き方を探っているようであった。釣りを民宿の主人から習い、夜は焼酎を酌み交わして過ごす若者は、体制からのアウトサイダーであった。こうして過ごす若者から、中央と地方の関係を考えた。この島の人々も若い人は中央に出てしまう。逆に中央の若者が地方に出てくる。地方とはなんだろうか。

小笠原
 小笠原も復帰直後で、島民が帰島して生活が始まり、一方、アメリカ人の漁師がわずかながら漁を続けていた。次の船がくるまで1週間は帰れない島に、一日かかる船旅でたどり着く内に、船室の友達もできた。小笠原は海中から突出した島で陸地ができてから、漂着し、鳥に運ばれた植物が生育し、長い隔絶の中で変異を遂げた種類である。ダーウィンが種の進化を見出した状況が見られる。漁民を通じて感じられる広大な海の幸、魚などの動き、ウミガメが当時、名物で釣り客がやってきていた。フカが繁殖するために集まる南島の入り江に漁師の船に乗って出かけた。
 船室の友人は狭い島の中を駆け巡っていたが、何回、回ってみても同じことの繰り返しに、辟易していた。見知らぬ植物、なじみのない土地からは、何も得ることはないよであったが、普段の生活との相違にいやおうも無く、直面せざるをえないだろう。

内地
 辺境が開拓のフロンティアであったアメリカも、フロンティアは喪失した。どこにでも人が住んでいる。そして出かけた土地の自然と人々の生活を見出す。見出すことは自分の過ごした場所を余りのも知らないで、逃避していることだった。辺境は日常の内に見出され、開拓の余地があるのだ。辺境を求めて旅する若者は辺境の中に自分の生活の場を見出したのであろうか。