外国への理解

はじめに
 日本人には日本語が通じる国内が最も過ごしやすい。また、生活の蓄積は日本のことを広く深く意識する。それなのに、外国を意識し、外国へと旅立つことを願う。外国は国によって異なる言葉を持っており、それぞれの文化と歴史によって特徴づけられている。国境を越えるにはパスポートが必要となるが、国民として認知され、権利と責任を有している。日本は島国で海が障壁として隣国と隔たっており、長い鎖国は外国を遥かに離れた国として無関係に暮らしてきた。しかし、現代は国内に留まることはできず、様々な外国の影響を受けている。外国への影響は国の外交や企業の経済活動を通じて与えている。日本に来ている様々な外国人に接する機会もある。また、多くの日本人が毎年、海外を旅行している。
 私は学校で、ドイツ人、スペイン人、アメリカ人の教師や修道院の人々と接した。また、韓国、中国、台湾、シンガポールインドネシア、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ユ―ゴスラビア、ギリシャアメリカに短期間だが出かけたこともある。そこで、人間として共通性を感じはしたが、違和感を感じることはなかった。国々の文化の高さを感じて、それぞれの国の魅力を知った。しかし、わずかな見聞と観光は部分的で、表面的であり、全体的状態や生活の内奥まで知る由もなかった。戦争にみる対立や破壊とその後の再建や改革などのニュースは国々で深刻な社会情勢が生起していることを示している。また、歴史の変転は社会的変動が国々の範囲を超えて連動していることを示している。
 近代がいかに進展したかは、わが国が鎖国を解くことが迫られたと同じように、世界中の国々が置かれた問題であったことは明らかであり、国々が相互に影響を与えあうようになった。弱小の国は帝国主義国家の侵略の危機に置かれた。しかし、科学技術の提供と導入の関係や様々な平和な関係も生まれた。外国は隔絶して無関係な国々ではなく、何らかの関係を持つようになった点で、相互に理解する必要がある。こんなことは言うまでもない常識なのであろうが、外国を理解することのの困難の大きいことを感じている。これはひいては、その国との関係において日本の理解がされていないことを示している。

ドイツの理解
 マルクスヘーゲル、カントと皆ドイツ人であり、日本人である私が何か学べるものがあると信じてきた。しかし、彼らの著作は何ゆえに生まれたのかは、著者の生きた時代の状況が作用し、その著作が訴えかけようとして人々の社会状況がある。何を語り、何ゆえに語るのか。その結果、生み出された歴史的現実から、その真偽が検証される。ドイツの近代は複雑な様相を呈して、人々の意識の屈折も大きいことが指摘されている。ニーチェナチスに利用され、全体主義の悲劇をもたらしたことも論じられている。まだ、私にはそうした論議の真実を学ぶ段階である。
 ドイツの近代と日本の近代とは日本が少し遅れて時期的に平行しているようである。近代社会を構成する個人の意識の遅れを伴いながら、近代化が急速に進む。意識と現実とは大きなギャップが生じ、そのギャップを埋める思想や文学、意識的な社会活動が展開する。その社会や活動を担って生きていく多くの人々が存在する。