庭園論

はじめに
 庭園という言葉は、漢字の音であるが、日本語の訓ではニハとソノから構成されている。日本語の訓は古代より、日本書紀にも出て来るということで、以前よりこの言葉を巡る論議が行われている。中村先生は、「庭園」に「島」が当てられていることから、「シマ」と「クニ」の関係に論議を広げようとした。一般には随分と言葉遊びであり、言語学者と漢字の研究家の言語ー文字の体系的な論議を根拠とする必要があるだろう。こうした論議は論拠の薄い古代への空想として考えれば面白いが、この空想的な論議を現代の多数の人々が手にしている「庭」に当てはめるにはさらに大きな飛躍であるだろう。こうした批判的意味で庭園論を考えてみよう。

ニハとソノ
 ニハは住居外部にある敷地にあり、住居の内外の空間で表現すれば、戸内と戸外の関係で戸外空間である。農家においては戸外空間であるニハは仕事の場であり、冬の仕事の場が屋内に移る点で、屋内の土間の部分をニハと称する地域も見られる。漢字の庭は宮廷の廷を含む文字である点で、儀式の場から生まれていることが想像される。ニハに庭を当てることは、単なる間という場を、儀式的な場に高めた表現となることが考えられる。
 ソノは菜園の場であり、外部からの侵入を防ぐために、囲いを作る必要がある。囲いを作って畑を作ることは、原始的な農業の時代には特に必要で、囲いは自然の侵入への障壁として作られたのであろう。やがて、土地の私有化が行われると、所有地を囲み、私と他の所有地間との障壁を作った。土地の私有化の進まない共同体には、強固な私有のための境界は考えられない。平城京の想像図には、高い塀で囲まれた貴族の敷地に区分され、その中は庭園ではなく、菜園とされている区画が多く見られる。後世の武家屋敷も塀の中では庭園に菜園が共存しており、小さな食料の自給を必要としたのであろう。園が囲いをもつこと、その囲いに支配的な所有の権威が付加している点で、ソノは園によって高められた表現となるのであろうか。
 そこで、庭園は単なる庶民の庭にはない名園を指すことになったのであろうか。近代の住宅地の庭は、障壁の強固な場合と、障壁が少なく、敷地内まで見渡せるまで、様々である。敷地にも大小があるが、敷地が大となることと障壁が高くなることとは関係がありそうである。障壁が高く、敷地の広い庭、庭が立派なものとなり、庭園の称してもおかしくはない、しかし、そこには菜園は見られず、園は存在しないのである。

シマとクニ
 シマは島、縞が音で当てはまる。島は海によって隔てられ、そこで、生活する人の生活圏域である。中村先生はヤクザの縄張りをシマともいうことなどで、テリトリーに拡大して考えていた。実に島は海の中にだけあるのではなく内陸にも大河に沿って地名に見られる。川沿いの集落が川の氾濫から逃れるために、微高地を選んで分布し、その微高地が島の名で呼ばれているからである。川の流れによる土砂の堆積と流出によってこのような微高地が生まれるとすれば、流れによって生じる縞模様と島の分布が重なってもおかしくはないが、島と縞を結びつけるのは困難である。
 海と島の風景が取り入れらた庭園から、庭園をシマと称したのか、領域を示すシマが場としてのニハに重なったのかは、定かではない。ニハをシマと言い換えることは、現在には持続していない。しかし、庭園に池を海として島を作るのは何故か。それは島が世界の中心で、世界そのものを示す領域の象徴なのだと解釈される。
 クニは共同体の支配によって成立する王の専制国家であり、人民の生活する圏域である。共同体の生活域をシマとした場合に、専制国家とその人民の生活圏がクニといううことになる。庭園の島が世界を表わすならば、その島はクニであってもおかしくはない。現に金閣寺の庭園にはそのように名づけられた島がある。しかし、それは支配者の遊びのニワなのである。クニを一目で見ることはできず、縮小した地図で見出す他はない点で、実体そものであない情報としてのクニであるのだろう。

余白
 ニワは間なのか、場なのか。その間と場を高めたところに庭が出現したのであろうか。ソノは農業行う場であることで、囲いが作られ、園とされる。さらに、敷地の私有が、園に庭を結びつける。庭園とされた時、園は庭を受け入れる場とされたといえる。その場において世界の範囲を示す場として池が作られ、世界を示す島が作られる。島自体も場を示すが、島にとって池が場となり、池にとって囲いの範囲が場となる。池は島の余白であり、池に園は背景となる余白である。この余白の広がりが間ということになる。
 ちなみに、場は庭から転じたと辞書にあり、間が物と物との間隔とされ、空間があることを示し、時間にも適用されている。土間がニワであることは、間に生じた場としてニワとされたのであろう。