風景の模型(1)

はじめに
 ブログを読んでいただいているとのことありがとうございます。多くが尻切れトンボでもうしわけありません。また、記憶にあることをよりどころに書いているので、実証的でもありません。盛口さんの模型の緻密さとは格段の相違があります。それでも書いているのは、いつか完成させたい希望があります。しかし、書けば書くほど世界が広がるばかりで、収束をすることをあきらめることになるかもしれません。そんなところで、広がる世界を共有していただければと書いている次第です。是非、温かなコメントやできるだけ厳しい御批判をいただければ幸いです。
 ところで、以前より景観模型と盛口さんのことを題材にしたいと思っています。この返事とともに、最初の話を書いてみることにします。模型とは?盛口さんの模型論の一端に迫りたいという願いですので、御容赦下さい。

模型のはじまり
 小学生の頃、吉川の三国志が著され、毎巻を熱中して読んだことが思い起こされます。諸葛孔明の巧みな戦略に地形と戦陣、状況による軍陣の変化に心踊り、図上にその動向を配置して、軍師の気分を味わって遊んでいたことがありました。庭に出て雨の降った後の地面に砂粒が浮き上がっていたり、流れの跡が地面の模様となったり、こうした姿に、山河の形成の細部を感じました。コケはあたかも森を概観したような感覚を呼び覚まし、同時にコケの繊細さを感じさせます。幼児の砂遊びをよみがえらせて、土を盛り上げ、コケを貼っり、石を置いて雨が降ったときの流れを導いて、山河の景色を作りました。これが造園を志したきっかけでした。
 景色の模型は、景色を縮めて作る盆景であり、縮景といえるのでしょうか、コケが森に、刈り込みを山と見ます。その縮景は作る人の意識の中にあるイメージが外化したものであって、実際の生活空間ではないのでしょう。造園とは意識の産物でありながら、実用の生活空間という違いがあるのでしょう。模型を現実の生活空間にしたいというのが、造園への志向だったのかもしれません。盛口さんの模型は、生活空間の実体を感じさせる模型といえます。