風景の模型(3)

はじめに
 盛口さんから次のメールをいただきました。
 例の激突事件以後、まわりの風景を、少し焦点をボカシて見る、変な快感を感じるようになりました。これは、世の中から少し距離をおける、緊張緩和手段でした。またそれは、ボケた風景そのものを、そのまま、手に入れてみたいという感情に発展したように思います。
 学生時代の「かたまりとしての全ての空間へ」が35年後の、今になっても、代弁してくれております。風景の表現手段は様々ですが、全ての「息づかいとしての風景要素」を出来る限り盛り込める可能性の最も多いものとして、立体造形(かたまり)としての「模型」を選択いているのです。
 意識にとって外側の世界(外界)は、行動空間として意識されるまでもなく、様々な事物が含まれていて、そうした事物に出くわして、その事物を意識します。それが日常の行動となると、経験の蓄積は、意識された事物を関係付けた行動空間の全体像を意識していると考えられます。頭の中に行動空間のイメージが生じていると言い換えることができるのでしょう。盛口さんのかたまりの意識、意識のかたまりがこれに該当するかは今後の議論によるでしょう。

イメージの模型
 頭の中には、多くのこれまでの経験が蓄積しています。その経験から、他の人の経験を知識として付加しています。多くのの情報、知識は、個人の経験を超えた社会さらには人類と地球、さらには宇宙と物質の世界にまで広がっているといえます。われわれの頭の中には、人類が手にしている世界の知識と経験が包含されている、あるいは、知識が情報を認識することで包含していく可能性があるといえるのでしょう。
 盛口さんのかたまりの意識は外界の全体像であったのではないでしょうか。かたまりの一部のイメージが模型によって現実化し、イメージの表現を他の人が見ることで、イメージの共有が起こるのでしょうか。誰かが経験する現実の生活空間は、イメージを媒介にした模型で表現されることによって、全体像を純化して提示できるのでしょうか。模型が何故、人をひきつけるのか、教えていただきたいです。