北九州若松の魚屋

はじめに 
 母の里は北九州若松の魚屋である。その母も亡くなったが、伯母とその子供夫婦と孫の3代が魚屋を続けている。母の両親の代に魚屋は始まっているので、4代の世代に持続している。大正時代の創業以来の店の様子は、少しも変わらず、母が実家に帰る折に連れられてきていた子供の頃の記憶からも、今の様子は子供の頃と少しも変化はない。しかし、祖母、母、伯父はなくなり、若松の産業衰退とともに都市の賑わいは火の消えたように失われた。
 若松は明治に石炭の集散地、運送の拠点として、都市の整備がなされ、繁栄し、戦後もいち早く復興することができた。しかし、石炭から石油へのエネルギー転換とともに、次第に沈滞へと向かった。戸畑から若松への洞海湾の渡し場と筑豊本線の始点の若松駅までの本町通りは、通行量の多い繁華街であった。渡し場付近は石炭と運送に関する企業の事務所が集積していた。そうした事務所街の一角で本町通りに面して、祖祖父が大八車での行商から魚屋を開店したそうである。戦前から戦後への都市の繁栄は、事務所などの宴会などの仕出しの注文も多く、近所や通りを通行する人々の朝夕のお惣菜にも、需要が多く、店を繁盛させていたそうである。私も子供時代に魚屋の忙しさの中で過ごした思い出がある。

 しかし、若松の衰退は急速だった。石炭から石油へのエネルギー転換と自動車時代の到来は複合しているが、事務所の縮小や撤退、倒産などもあり、また、若戸大橋の建設や、鉄道の衰退は、渡し場から若松駅までの人通りを途絶えさせた。本町通りの商店も閉店が多くなり、さらに大型店の進出は、繁華街の息の根を止めることになった。商店街に空隙が目立ち、閑散として、生気を失ってしまった。

 私もしばらく、若松に顔を出さない時期あったので、その変化を継続して見ることはなかったが、行くたびに空洞化が目立った。しかし、この数年で町は一層静寂感が増して、かえって、歴史的な過去の街へと現実的な騒々しさが遠のいたように感じる。レトロな街として海岸通りや船着場からの本町通りが整備されたためであろうか。そこに、マンション、アパートなどの集合住宅が徐々に進出している。レトロな魚屋に活性化の可能性はあるのだろうか。そこが住みよい街として再生できるのかに掛かっている。


魚屋と住みよさの関係
 魚屋の存亡は近隣社会における食と住の関係の象徴的問題であるのではないだろうか。魚屋の親類は、顧客が老齢化し、新たな顧客の増大しないことを嘆いている。折角の後継者も、魚屋が発展しなければ、かえって経営的な負担が増大する。レトロであることは、単に感傷ではなく、過去からの持続性である。魚屋は魚のおいしさを知っており、そのおいしさを引き出す技術とを堅く、守って商売している。頑なに養殖魚を使わず、近海で漁師がとった魚を毎日、市場のせりで落として買っている。新鮮で旬の魚をもっともおいしい調理のために、さばいている。付け合せの海草や大根のツマも極上である。しかし、それを知る顧客は減少一方ということなのだという。

 朝夕の食事に魚は欠かせない。ご飯のおかずとしておいしい魚は最高の価値がある。おいしい食事が採れることは住みよさの条件である。伝統の技を持つ魚屋は、それぞれの個性を発揮して、魚を仕入れ、おいしさを引き出して、顧客の欲求に応える。そんな魚屋のいる町は住みよい町である。魚屋は近隣社会に食を要として住みよさを生み出す。
 折角、レトロな町に住んだマンション住民よ、レトロな魚屋の魚を一度、食べてみたらわかる。おししさが住みよさであることを。そして住みよい町には活気が甦るだろう。