ドイツ林業の時代的背景(2)時代区分

はじめに
 ドイツ林業の時代的背景として、その変化によって時代区分を行いたい。若尾・井上編:近代ドイツの歴史 によるものであるが、近世から近代への移行過程は、社会的、政治的な革命を伴う変動であり、激動といってもよい。時代区分は、この変動の変換点に生じるが、その要因が何であったかが、問題である。一方、ここの主眼は林業の展開であるので、林業を構成した要因、土地、森林の状態、森林の管理経営主体に関わる時代背景を取り上げる必要がある。時代区分とその要因の考察からすれば、不徹底な記述であるが、林業の展開の前段として理解しておく点を指摘しておく。
文献)近代ドイツの歴史 若尾裕司・井上茂子編著 ミネルヴァ書房2005

1、18世紀初頭から19世紀中葉まで

 1668年ウェストフェリア条約によって30年戦争が終結した。その後の時期1682年、オーストリア貴族の綿密な家政学の書が見られるそうである。エルベ川以東はその後、農場領主制が成立し、18世紀初頭から19世紀中葉まで、農民を追放する権利をもつまでに強力な体制であったという。農村共同体は領主の支配化に置かれ、共同体は国家の末端組織として機能し、領主はプロシアではユンカー貴族をとして王に忠誠な国家の中核を形成していた。一方、商工業の面では、プロト工業化として論議された家内制手工業が発展し、「自然が資源化されていく」変化が見られたということである。18世紀は啓蒙時代であり、領邦国家には啓蒙君主の出現が見られ、一定の近代化が進展した。

1−2 19世紀初頭からウィーン体制

 1792年に革命のなされたフランスの侵入があり、西部はナポレオンの支配下に置かれた。プロシア王国は東方に進出して、ポーランドの分割で領土を広げ、国力を蓄えた。しかし、1806年ナポレオンと戦って、敗戦となり、シュタイン、ハイデンベルグの改革によって内閣制を採り、農民解放、都市自治などを進め、軍制も自由主義ナショナリズムの要求のもとで民兵的組織を採用した。中央集権的近代国家建設への改革を進めることになったと言われる。
 当時、フランス革命の影響で職人、農民の反乱などがシレジエンなど各地で起こり、シュタイン、ハイデンベルグ1807年世襲隷農制廃止、1811年の共有地分割の促進による土地取得を自由が行われたが、農民解放は有償であり、かえって、領主層の立場を強め、土地獲得を容易にし、農民層の立場を弱め、貧困を増大させた。
 ナポレオン戦争後のウィーン体制は、列強の均衡で成立し、19世紀半ばまでの安定した時期であった。しかし、1830年のパリ革命、さらに1848年のパリ革命に至って、ドイツ各地とともに、ヨーロッパ各地に市民革命が起こり、ウィーン体制は崩壊した。

2 1848年市民革命からビスマルク体制(1862-1890)

 1848年の市民革命はベルリンにも生じ、ドイツ各地で生じた市民革命はドイツ統一に向けて、フランクフルトに国民議会を成立させた。連邦による立憲君主制の国家体制を目指して、プロシア国王を皇帝に要請したが、その拒否によってドイツ革命は流産し、ドイツ連邦の復活を見た。1844年にシレジエンで織工の蜂起があり、労働者問題が社会的に取り上げられる契機とされた。
 1830年代に始まり、プロシアでは1847年に国費建設を決定した鉄道建設は、巨大な需要によって重工業、機械産業を発展させた、石炭産出地域であるルール地域、ザール、上シュレジエン、ザクセンを工業地域として発展させた。1851年の採掘の自由化はルール地域の生産が圧倒的となった。農村地域では人口増加による貧困の拡大から産業革命に先行する大量の移民があり、産業革命の進行は都市の人口集中を伴い、農村からの人口流出を招くことになった。都市への人口集中は労働者層の増加となり、居住環境を悪化させ、また、賃金引上げの要求から争議も頻発することになった。環境改善、社会改良の要求のための活動団体が設立され、社会主義政党を出現させた。
1860年代にプロシアを中心とした産業革命が進展し、階級分化と諸階層の組織化が行われ、近代的な政党が成立した。プロシアにおいて政府と議会が憲法紛争が起こり、ビスマルクの鉄血演説が行われた。ビスマルクの主導のもとに、デンマークオーストリアとの戦争に勝利し、プロシアを中心としたドイツ統一を達成した。普仏戦争においてフランスに勝利し、1871年ドイツ帝国を成立させた。
 普仏戦争の勝利による巨額な賠償金は、巨大な需要を生み出し、新会社の設立などの景気増大が生まれた。しかし、その反動として経済恐慌が生じた、ビスマルク1878年社会主義者鎮圧法によって労働者層を抑圧しながら、企業家、大地主の要求によって保護関税政策をとった。80年代には農業から工業への移行が達成された。都市と労働者層が重要性を帯び、1889年ルール鉱山労働者のストライキからビスマルクは退陣し、社会主義者鎮圧法も失効した。

3 1890年から第一次世界大戦まで
 ビスマルク辞任後、日曜労働禁止、女性、少年の労働時間制限による労働者保護政策が打ち出されたが、皇帝は、農業関税引き下げに不満を持つ農業者同盟などの保守的な勢力による要求によって社会主義政党の進出を抑える転覆法案を提出し、1895年否決された。工業社会に見合う改革を求める勢力とそれを認めない勢力との対立が続くことになった。