風景の模型(5)立体

はじめに
 空間、空気に対して、かたまりは立体であり、空間を凹とすれば、立体は凸の関係にある。セザンヌは視覚的な凸を、実在としての立体としてとらえた。セザンヌの絵画にあっては、山が量塊であるのはもちろん、海でさえも量塊としてとらえられているようである。こうした存在感は空気さえも量塊として感じさせずにはおかない。それによって、空気の中にいる人間もまた、絵画の内部に自分の存在感を持ちえると感じる。絵画に描かれた風景を、同じ場所から写した写真と対比して、写真の平板さに、絵画の実体感が顕著であるのは、このせいなのであろうか。
 森の口さんの若い頃の覚書、随分昔に送った森の口さんへの覚書が送られてきた。時を隔てても、その頃の難問の答えは見出されていない。あまりに多くの問題があったのか、しかし、それらのどの一つにも良いと思う答えを確信できないのは何故だろう。セザンヌの量塊にその頃から注目していたのに、未だに答えを見出さない。

見えるもの
 存在しているものを見てるはずなのに、見えるものしか存在しないと考え、見たいものしか見ないという。野生動物ならば、存在しているものが見えなければ、生きてはいけない。見えるものしか存在しないとは、人間が単なる意識でしかないという、傲慢でしかないのではないか。見たいものしか見ないとは、塩野七生氏の取り上げたシーザーの言葉である。見えるものは大切であり、それを手がかりに存在を認識する。しかし、存在は人間の意識のもとにあるのではない。
 立体は面を知覚することで、知覚されない裏面の存在を認識する。裏面は確かめられない点では、単なる想像である。裏面の状態を想像して、立体を知覚しているといえる。立体の面は、表面である点で、立体の内部もまた、知覚されない想像の産物である。想像の根拠は、経験と知識に基づく論理的判断であろうが、その未熟さと実際に知覚されたものの手がかりの少なさによって、知覚の判断に誤りが生じる。それにしても、知覚される事物を単なる量塊と判断するとしても、見えている以上に、意識における想像の比重がはるかに大きいことが考えられる。それ故、知覚の鋭敏さは、知性なのだと主張できる。
 立体、空間は3次元に抽象化された事物の存在形態であり、大きさと形、表面の広がりで知覚される事物の存在の側面である。