立科・津金寺

はじめに
 昨日、津金寺の住職様から20年ぶりの電話があった。20年前も突然の電話で、境内整備の計画を見てもらいたいとの話から始まった。すぐさま、立科の津金寺に出向いて、話をうかがい、境内を見せていただいて、老朽化した建物の改築の計画をお聞きした。私よりも若くて、当時、40才台であったかと思う。明治時代の絵図面から、当時の様子の再現を目標にして、水田整備などで廃棄されている石垣の石などを利用して、地域の環境になじんだ整備方針ではどうかと提言し、裏山の山林が郷土環境保全地域の指定を受けているところから、県の補助によって自然探勝園の整備も行うことを勧めた。そんなことがあってから、20年が過ぎていたのである。住職様は3期にわたる整備がやっと完了し、それを記念して津金寺の歴史について出版したので送って下さるとの連絡であった。そして、住職を今年になって、次代に譲って退任したのだという。20年も忘れないで、整備の完結を知らせてくださったことに感謝している。

地域における津金寺整備の意味を考える
 住職は20年前、地域の野球に加わって、若いけれでも気さくで住民とねんごろな関係にあるようであった。整備にも檀家の人々の意見が大きく左右しているようであったが、また、住民からの信望で整備の方針は住職が任されているようであった。春のお釈迦様の祭礼には山門に幟が立ち、大勢の人々で賑わって、地域の人々の中心になっていることがうかがえた。春にはサクラを楽しめ、初夏にはボタンの花が咲き、山野草で彩られた流れと池の庭があり、道が裏山に続いている。また、秋には萩の花が地面に枝垂れて咲き乱れる。古く大きな庫裏の建物には、檀家のお年寄りが自分の家のように出入りして、地域の人々との結びつきがうかがえた。
 立科町の中心は、かっての中仙道の宿場であり、和田峠を越えて、2つの宿場から、笠取峠を越えて入ってくる。笠取峠には見事な松並木の老木が保存され、中仙道の面影を伝えている。宿場と松並木と津金寺で3角形を構成するような配置となっている点で、地域の歴史的環境の骨格となっている。しかし、個々の地区の整備は別個に行われ、地区間の関係は見られない。中仙道と宿場とは同じ時代のものであるが、津金寺は地域に根ざして現在に至るまでの長い時代の変遷を経ており、歴史が現在の住民生活に位置づいている。
 津金寺の整備は、寺に関係している檀家となる地域住民の力によって行われた。自主的な地域共同体活動といえる。整備に示された住民の力、整備されたことによる効果の住民による享受という点で、自治の見本となるものであり、それが文化的であり、歴史を受け継ぐものであることに、地域発展に寄与していると考えられる。

「津金寺の歴史」
 今日、早速、津金寺の前住職様から「津金寺の歴史」が届けられた。237頁に及ぶ大著で、1000年の歴史が記述されている。これまでも、折に触れて津金寺に関する記述が出版されているが、地域の歴史を寺を軸として住民が再認識し、郷土を愛する根拠とされるのであろう。春の花まつりの賑わいに紛れて、住民の生活の歓びに触れることで、何度か大きな楽しみを味あわせていただいた。これが、前住職様へのお礼の手紙である。