視覚とイメージ 

はじめに
 最近、頭で考えたイメージを画像として映し出すことができるようになったという。色彩を巡るニュートンゲーテの論争は有名な話であるが、刺激となる光そのものの性質をニュートンが明らかにし、その刺激によって生じる感覚と内的意識までをゲーテが問題としたことであったとされている。今日の脳科学では、内的意識を脳に集積している神経の作用として、意識の働く脳の部位が明らかとなり、その部位の活動が見るものと関係し、また、行動を支配する神経にも結合して作用しているというのである。それ故、脳の部位の活動とその網膜へ位置から、意識で想像した風景も映像に示すことができるということであるらしい。
 思考が脳の活動であることも、古くから言われたことであるが、その緻密な証明の段階に到達したといえるのであろうか。思考と行動は連結しているのに、主観と外界とを分離し、その関係を論ずるところが哲学の課題であったのだろうが、もはや、こうした哲学的な悩みに煩わされることはなくなったと言ってよいのであろうか。そうすれば、思考が外界を客観的に判断することで、適切な行動が行われることに信頼を寄せてよいということになる。行動から人の思考を判断していることに確信が持てるようになる。内面の思考のずるさと外界に生じる行動とは一致するとなると、ずるさを隠すことが無意味となる。思考の正直さ、純粋さが大切となる。
 行動にまで踏み切らない思考を目から読み取ることも古くから行われたことである。感情は表情に示されるが、感情を隠すために、表情を繕うことも、よくあるが、そこで、真意を読み取るために、目に表れる感情を読み取ろうとするのではないだろうか。シーザーは自分の暗殺者の真意を読み取ろうともしなかった。何故なら、信頼していたからであろう、シーザーの真意あふれた目の輝きと晴れやかな表情が想像される。
視野と網膜
 視野は外に開かれ、それが網膜に投影されるが、網膜の映像がすべて意識されるわけではない。そこで、意識によって視野が開かれているとも言える。見たいものが見えるのである。視野には外界の刺激が入ってくるから、外界の反映することは確かであるが、見えるものから、見たいものが選択されるのであろう。見たいものを探索する意識が働くから、見えてくる。
 原始時代の人間が、生存に必要であったことは本能として食欲、性欲、恐怖、不安、安全、安心として、意識を左右しており、自己保存の欲求として見たいものを決定付けているのであろう。こうした本能的欲求に対して、文明は社会の秩序と生活の向上、文化の展開の意識を向上させ、道徳意識となる善、知的向上となる真、感性の向上となる美の理念を人間的欲求とすることになった。真善美に理念への欲求の収斂はプラトンによって明確となった。これらの理念は、自己保存とは対立的であり、自己を離れた平静さによって感得される。平静さによって、自己の欲求は相対化されて、愚かしい人間のドラマとなる。本能のままの生存は、自然との闘いによってドラマを生じさせた。文明のゆとりは、人間社会の理想と個人の欲求の相克がドラマを生じさせる。
 網膜に映る外界は、外部の刺激と見たものへの内的欲求の意識の合成物であることによって、見たい対象と見えてくる背景によって構成される知覚対象となる。しかし、見たい対象と見えてくる背景とは、意識において分裂し、それを、意識内で再構成しているはずである。見たい対象が一面に広がる視界では、焦点を定めることができないが、視界全体を統一によって構成できる。見たい対象もない視界は、無関心にただ見えているだけであるが、見たい対象があるのかわからない内は、探索し、焦点を移動させる。こうして、私たちの知覚は意識そものと一致してくる。
 探す対象となる見たいものは、本能に根ざした欲求の具体的な事物であるのに対して、理念は意識の抽象的な観念である。しかし、その理念が具現化していると意識される知覚は、対象と背景との視野における統一によって生じるのではないだろうか。美は事物と事物の関係の感覚的欲求の調和であり、善は人と人との交流の調和であり、真は事物への理解の知的な構成であるように、背景への意識によって対象を位置づけられる時、視界は理念を具現化した知覚と意識されるのではないだろうか。


輝く瞳と閉ざされた瞳
 多くの子供の瞳は輝いている。生きる力に溢れて、人への信頼に充ちて、そして、好奇心に充ちている。外界に向かって前向きな意識が、瞳の輝きに顕れているといえるのであろう。その瞳の輝きは、開かれた環境によって一層、その輝きを増すだろう。しかし、閉ざされた環境は、その瞳の輝きを弱めてしまう。瞳の輝きは、開かれた心と一体のものであり、大人になってからは、開かれた心が、子供の瞳の輝きを持続させるのであろう。
 邪心による眼差しは、階級社会によって自由が束縛された人間、そうした人間を私欲によって支配する人間の意識の顕れかもしれない。近代社会はそうした束縛から自由を獲得しようとするものであったろう。近代は子供の瞳の輝きを持った人々によって切り開かれてきたと言える。現代社会が、近代の個人の尊重の理念によって構成されているなら、多くの人が若々しく、輝く瞳を持つだろう。その瞳の輝きは、真善美の古代からの理念を具現化した知覚を示すものだろう。しかし、工業化、分業化によって生産力を増した社会は、自然からの乖離や富の社会格差の増大などによって、個々の人々閉塞状況をもたらすことも生じる。こうした現代の問題を、近代の民主主義の理念の再現のために、何度も克服することが重要なのであろう。その挑戦によってドラマが生じ、古代ギリシャの人々の瞳の輝きを取り戻すだろう。