過密都市の樹木

はじめに
 東京の都心は、銀座に始まり、いくつも存在している。それらの都心の境界があいまいで次の都心に連続しているとすれば、そのいくつも存在する都心を含めた地域も都心と呼ばれることになるのであろうか。都心を中心とした地域には大小の建物が隙間無く集積し、多くの人々が集まっている。この息苦しい混雑の状況を都心に出かけた人は誰もが体験することだろう。
 何故、こうした人と建物が集積しているのだろうか。仕事と消費がその集積の原動力となって、建物の集積に人が集まり、人のの集まりに建物が集積する交互作用が、集積を加速させる。しかし、建物が集積しても人が集まらなくなった箇所は、たちまちに閑散となる。過密と閑散は正負の関係を持っているのであろう。そして、正となる集積が、たちまち負となる閑散に転換する危険を持っている。集積の中にも、新旧の転換が進み、これらの混乱した集積が、集積と閑散の拮抗した動的変化を示している。人口増大と人口集中が、大都市を生み出し、加速的な拡大と都心の集積によって、拡大と集積を遂げ続けている。こうした都市の動的変化の上に将来像を描いたのがドキシアデスであった。都市拡大の現実と人間的居住空間の理想とが、いかに結合しうるかが、ドキシアデスと近代建築家の大きな問題であったのだろう。
 しかし、東京の混雑を見る限り、都市への集積の現実に、理想がはるかに遠のいていることが実感される。集積と集中を持続させるための再開発による更新が行われ、新たな駆動力の集積が集中をもたらそうとし、人間的空間はその装飾となっている。そこに、人々が集中して、混雑を呼び覚まし、人間的空間も混雑の一部であることを体感するのである。建物と集積と舗装された道路は、自然の隙間のない、過酷な陽光と汚れた空気の人工空間と化している。人々は、建物の内部に逃げ込む他は無く、建物内部は空調によって快適であり、消費の場や仕事の場としての機能的な人工空間を準備している。その内部空間の利用は、その空間機能に従属し、また、消費としての負荷を伴っている。建物内外の空間には、誰もが快適な人間的で自由な空間は見当たらない。逃避場所をどこに見出せるのであろうかと探す人々が溢れており、結局、そうした場所を人々が追いやられながら、占拠せざるをえないのである。あるいは人々は閑静な住宅地で明日のための休息に希望を抱いて、過酷な市街から逃れて、帰途につくのであろうか。

街路空間と街路樹
 かって街路空間は街路に面した建物の住民と通行者の入り混じる生活空間であった。しかし、自動車交通の増大に対処する道路整備が、生活空間を分断し、縮小させた。自動車の入れない路地にかっての街路の面影が残されている。こうした整備にも関わらず、自動車と通行者の交通量の増大が、混乱を招き、また、建物の集積と高層化が、街路空間を狭小なものとし、利用に困難を来たして、混雑を招いているのである。かえって、衰退し、閑散となった場所に、混雑を避ける状況が存在しているが、その空間は利用も少ないのである。
 市街の狭小な街路空間の自然回復に街路樹はほとんど唯一の方法であるかもしれない。過酷な陽光を和らげるだけで、外部空間にいる人々には大きな安らぎである。また、ほこりと騒音に耐え切れない大気も街路樹によって改善されるわけではないが、緑陰と並木の遮断によって自動車の影響を防止しているように感じられる。また、高層の建物の壁面と覆いかぶさるような建物の頂上を樹冠の覆いで隠してくれる。圧倒的な人工空間も、街路樹の樹冠による効果で、自然的空間へと変身する。しかし、狭小な街路空間に自然の樹形や、樹林としての空間を提供することは困難である。こうした限定された効果でも、中心市街の環境改善に不可欠なものとなっている。


おわりに
 一方、街路樹の生育は、造園技術によるものであるが、樹冠の広がり、根系の広がりに、街路空間はあまりにも厳しい条件であり、大気の厳しい条件を緩和させる働きをしながら、それが樹木衰退の要因ともなってくる。樹木との共存関係ではなく、一方的に人工空間の改善を樹木に依存している。共存のためには、広がりと土壌や大気の自然的条件の改善が必要となる。市街空間の逃避場所としての公園に共存の可能性があるが、限られた場所であり、そこには、また、利用が集中し、混雑が生じてしまうのである。樹木の導入による改善も限界がある。樹木導入の効果を十分に発揮させ、人工と自然の均衡した人間的空間を生み出すために、ドキシアデスの提唱に立ち返り、動的に発展する都市空間を前提にした自然空間の保全と回復を考えなくてはならない。自然空間の導入に都市への集積を緩和させる都市の衰退は大きなチャンスであるといえよう。こうした衰退の都市計画に成功しているのが、松本市と考えるがいかがであろうか。
 以上はわずかな印象から、大きな推論の僭越を犯していることはわかっているが、経済の自然な変化に従う都市形成は、破綻が来て悪化している状態を直視すべきであることは確かであろう。