ドグマ批判―仮説の社会構造

はじめに
 仮説の社会構造自体がドグマであるが、ドグマを脱するために、これまでの多くの人の学究に依拠しなければならない。しかし、学究の中にもドグマが含まれるから、学究の系統的な展開から検証していかなくてはならない。その系統的展開を見ていくには、個々の学究が時代的な状況、段階によって提示され、社会的受け入れられた点で、その背景との関連と結びついて理解されなくてはならない。以前は、こうした学史の理解は大変困難であり、学史に入ってそこから抜けられなくなってしまいそうであった。結局、私自身そうだった。雑然と書物を積み上げ、雑然と知識を吸収する。単なる物知りにすぎない。空想的仮説を脱することができるのか、書店に並ぶ書物、図書館の書架に並ぶ書物、巨大な国会図書館につめられた書物、これらを克服できるのだろうか。克服することはできないが、この書物の山から必要な書物を選ぶことができる。
 しかし、仮説は現実の社会や自然の一端に依拠して、その一端を構成する全体像を描こうとするものである。何に依拠しているかわからない書物の知識よりは、経験的な確かさがある。しかし、経験からの全体像への仮説は、広い書物による知識によって批判的に再構成される必要がある。それに必要な書物を見つけて役立てればよい。大勢の人は、自分の経験における発見が、既知の知識であることを自覚することになる。同じ事を繰り返しは、自分だけに役立つことである。独りよがりな教説がドグマであるが、空想的な仮説をドグマとして成長させることは大きな誤りであり、仮説から真実を探究する知的探究の放棄である。仮説を知を閉塞させるドグマとしてはならない。

知の閉塞状況
 私自身も膨大な知識を時代の変化の関連付けた論理になしえない点で、閉塞し、ドグマに陥っていることを自覚し、仮説でしかないことを意識し、弁証法的に乗り越えつづける必要がある。個人的な生活にマスメディアによる大量の情報が提供され、日常化、一般化している。しかし、この情報は断片化した知識であり、その情報を生み出す社会構造は、事件の背景として各自が解釈している。その各自の根拠は知識の習得による教養と呼ばれる。一見、開かれた知識に依拠するが、個人の知識の選択と習得程度には格差がある点は、学習意欲とともに個人的である。膨大な知識と情報は、個人間の共通した教養を希薄にしているといえるかもしれない。一方、個人的な生活の必要と地域的な社会関係にとって、共通の経験と知識が育ちうるが、生活の必要な知恵は、膨大な知識の根源的ではあるが、一部に留まる。
 健康や生活方法、信念、世界の理解の確立を求めて、教説による社会集団が次々と形成されるが、懐疑的、批判的な探究の持続と固定的な概念の確立とは相反する点で、集団的な知の閉塞状況が生じる。しかし、教説が実際への不適合と科学の進歩から取り残されることが明らかになると、教説の支配力は失われ、消滅する。教説は仮説であり、常に反論と対置されることを最初から考えるなら、教説による集団形成は知的である限り強固なものではないはずである。
 知識を有することも、経済的な余裕から生まれ、知識を有することが必要とされる社会的立場は、職業的、階級的なものである。知識の階級による独占体制は、中央集権的な専制国家に見られるようになったのであろう。そこに、官僚体制が成立した。近代社会においても政治的な社会体制の持続のために、官僚組織が必要とされている。官僚による政策立案は、社会体制の発展的持続である点で、中央集権の独断的政策が打ち出される。こうした政策は地域や住民、個人のレベルとは次元を異にしており、個人レベルによる理解から隔絶するとともに、個人レベルに向かって、支配力を発揮する。これは社会的な知的隔絶である。対話による是正がこの隔絶を緩和する。
 経済社会にとって消費的需要を喚起させ、利潤を追求する商業主義が普遍的である。知的興味は流行に転化して、供給される商品を選択する。その商品供給から逃れることが多くの人に困難となり、批判的吟味、商業主義の外部にあるものを遮断する。商業主義自身も流行の教説を作り上げ、消費者を集団的に誘導する点で、教説による社会集団と同様な知の閉塞状態をもたらすのだろう。しかし、そうした教説に乗るか否かは、消費者の商品選択であり、流行を生み出すデザイナーとの交互関係である。
 個人主義における自由は、職業選択など社会的自由であるが、希望する職業の門戸が狭く、また、職種と専門能力との関係のアンバランスが経済的に生じる点で、自由は社会的制約を克服することによって得られるものなのかもしれない。しかし、自由が精神の自由として意識される時には、社会的自由と意識的自由とが拮抗する。意識は自由であるが、意識を社会的実現する行動の自由がないとすれば、それは自由とはいえないだろう。行動の自由が制限され、意識だけの自由であるとき、その自由は空想に過ぎない。個人主義への自由の後退は、知の閉塞状態の原因となり、空想は歪んだ幻想のドグマに陥る危険性がある。

ドグマからの脱却
 現代は様々な知の閉塞状況が支配的である。社会的、自然的な環境自体も人為による人工と改造によるものとなり、そこでの経験自体が、科学技術に依拠した人間の意識的産物であるが、時代文化的なドグマ性を帯びている。環境を構成する人為と人工の中からドグマ的なものを区別することが、生活の必要や生存の基盤となっている自然環境を見出す上で重要ではないだろうか。意識におけるドグマの閉塞状況を脱することが、知的な自由を見出すことを可能とするのではないだろうか。