現代文明の擁護ー仮説の社会構造

神部さんのメイルとその回答
 もし伝統文化という者が 「おてんと様に感謝する」という自然崇拝なら、それは近代文明より未開で 遅れた文化なのでしょうか?
お天とう様に感謝することは、小さな頃からしてきました。朝の太陽に向かって手を合わせること、ご飯のお米を大切にして一粒も残さないで、御馳走様と手を合わせることは、我が家の習慣でした。戦後の食糧難では、お百姓さんに感謝し、実りをもたらす太陽はすべての源として感謝することは、当然のことでした。それが伝統になっているかに関わらず、現代にも自然な行為だと考えています。自然な行為であるから、伝統が残りうるのだと思います。

 思えば40年前に 京大の一室で伊藤さんに会い,その頃は、哲学と資本論を教えてもらったことをいまも覚えています.その後、あの中国共産党による天安門事件や近年のアメリカ発の金融恐慌などを見てアメリカも中国もロシアも腐敗し堕落していると思うのです.その骨格が物質中心の近代文明です学校教育は近代文明のみを教えます.でも本当はこの近代に大きな欠陥があるのではないかと思うのです.政治も経済も政治も みんな腐敗しているのがそこに心がないからではないのでしょうか.そんなことから 心を中心にする伝統文化を見直したのです.近代か 伝統文化か、その辺を伊藤さんが、いま どう考えているのか教えて下さい
 分業社会は相互の労働を感謝することで、有機的に結合し、それぞれは分業の一端を担っていることに責任感を持つことは、当然のことです。しかし、責任感のない分業はとんでもない結果をもたらします。共同体社会で必然的に有機的に結合した社会では、無責任な分担はありえないことでしょう。分業化しても人間の生存は有機的な関係によって成立しているといえます。その責任感は倫理の問題となります。今、他の分野と分断した専門や、そこにおける物質的利益追求への偏重は非難されることにもなります。
 哲学にとって重要な課題は、人間が存在することの意味を確かめ、よりよく社会的に生きることであると思うのです。どんな社会でも、人間の理想的な姿を追及することが、哲学的であると思うのです。社会は個々の人間によって成り立っているので、様々な人によって、理想や生きる目標も相違しているでしょう。一方、社会構造はどんな場合も人の生き方を制限し、支配してきます。資本主義社会の構造を明らかにしているものが、資本論なのですから、資本主義社会の物質偏重を批判しているものこそ、資本論と言えると考えています。社会主義は、階級的格差を否定し、人間としての平等を社会的に実現しようとするものといえるでしょう。しかし、この理想が官僚主義、指導体制によって実現しようとするところに、古い専制国家が浮かび上がってきます。社会によって個人の自由を束縛する結果を生み出します。近代の民主主義の理想は、個人の自由の権利と共存します。
 伝統文化すなわち人間的心情の賜物と考えるのは、伝統社会が理想的であったからではないと思います。理想的な心情による文化だけが、現代に持続しているものだと思います。伝統社会の弊害を忘れて消去して、良い心情のみに純化されて生き残っているから、価値があるのではないでしょうか。
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