森林美学から森林風致への過程

はじめに
 日本にドイツ林学とともに森林美学が導入され、日本の森林育成と林学の展開の中に、森林美学を技術として役立て、林学の一分野とする主張が、田村、上原によって叫ばれ、田村によって、「森林風致」として展開がなされていったことは、清水が[戦前における「森林美学」から「風致施業」への展開]2006において明らかにしているところであり、学会論文として発表されていることである。この森林風致の歴史的過程が、いつのまにか、引用も無いままに、論文、著書などに、あたかも周知の事実であるかのように文章となっている。学問の展開において、引用は論文展開の根拠となるものであり、研究課題の継続的展開を表わすものであろう。こうした文筆家の良識は地に落ち、学問をドグマ化するものであろう。
 何故、清水論文が論文たりえたかを考察し、森林風致に関する創造的な展開の緒を開いたことを明らかにしておきたい。

田村剛の森林風致への道
 清水の研究動機は、森林風致が様々に言われて、明確な定義がなく、森林風致とは何かへの回答を見出せないことであった。今田による森林美学研究はドイツ林学に関するものであり、フォン・ザリッシュの森林美学の課題であった「施業林における功利と美の調和」は、メーラーの「恒続林思想」における森林有機体の持続に包含されるものとの帰結を行っている。これに対して、田村は、日本の森林で森林美学を具現化しようとして、多くの提案と活動を行った。清水論文は、この田村を軸として、森林美学から森林風致への過程を明らかにしようとしたといえる。
 田村の森林美学から森林風致への論及は、必ずしも一貫したものではなかった。そこに、田村の追及過程と時代的な社会条件の反映を読み取ることができることに、清水が着眼したのであり、この見解は清水論文によって始めて明らかにされた点である。
 この田村の追及過程を段階的な展開とし、その段階が時代的段階に関係している点に関しては、清水論文を読むことであろう。戦前から戦後への過程における論及は、これから取り組む課題であるが、戦前の過程から戦後への橋渡しにも田村が大きな役割を果たしていることは、学会中部支部大会で発表したところである。今日の「森林風致」とは何か、は清水による研究課題として継続している。

フォン・ザリッシュの森林美
 フォン・ザリッシュの森林美学は19世紀末から20世紀初頭までに3版を改定しつつ出版された。当時のドイツでは、風景式庭園啓蒙主義時代の遺産となっていたのであろう。ザリッシュは、森林美と異なるものとして、庭園の風景美を区分している。庭園の風景美は自然の理想化であるというのである。そして、ロマン主義的な美として、ピクチュアレスクを主導したギルピンの風景美に賛同し、引用している。おそらく、ギルピンは自然が付与するものとして人間に与える印象を崇高美として取り上げたのであろう。ザリッシュはゲーテの自然を観察する態度にも賛同している。しかし、ロマン主義的な風景美を理論づけたラスキンの風景論の影響は未だ見られない。ラスキンによって知覚(視覚)の対象としての風景が明確となり、対象的な風景は、知覚の主観性を越えて、客観的な共通性を見出すことが出来た。知覚は人間の能力として心理学における科学的対象となった。こうした心理学の緒となったフェヒナーをザリッシュは引用しており、森林美を知覚の面から科学的にとらえようとした事が示されている。
 新島・村山の「森林美学」はザリッシュの影響が大ではあるが、新たな風景論と心理学の展開を含んでいる。一方、森林の自然美の観照に偏重することになり、ザリッシュの意図した施業林の美の育成の観点が欠落していると言ってよいのであろう。今田は、この欠陥を補い、ザリッシュの意図とメーラーに到達する森林美学の展開を明らかにしたのである。しかし、この森林美学が日本でどう展開できたかは、田村の展開との関連のなかで考察されなくてはならない。