風景の模型〈10〉イメージの展開

はじめに
 イメージは意識に生じる現実体験であるが、意識内の空想として活動し、変化し、ドラマを構成する。イメージはそうした行動のシーンであり、演劇あるいは映画では、シーン(景色または場面)が連続してドラマを構成する。エイゼンシュタインは映画の理論としてシーンは、モンタージュにおける現実の切り取り(一瞬の知覚)であり、その連続がモンタージュの構成によるドラマの創造であることを明らかにしている。ドラマは人間の行動、あるいは人生の活動であり、芸術的な起伏によって加工されたイメージということができるだろう。意識に生じるイメージが、劇場、映画の画面で公共化されてドラマが展開し、公衆にイメージを伝達する。
 現実における行動は場面、空間、環境−物質世界、社会的状況の中に生じるが、イメージは意識内に留まり、仮想の行動を空想によって準備している。空想から意志が生じ行動に踏み切ることで、イメージが現実化される。最初のイメージが現実体験によって生じるのに、意識の作用でその体験の分析や空想の構築が行われ、行動の意識が形成される。
 意識に生じるイメージ、意識そのものであるイメージは、人間の頭脳の部分であり、頭脳そのものと言えるのではないだろうか。しかし、意識内にイメージが留まる限り、非現実な空想、実体のない知識にすぎない。行動によって意識を現実化して空想ではない現実を生み出し、真実を体験する。
 しかし、個人の行動は限られており、多くの人々が体験している世界全体は、イメージから出て行くことはできない。世界全体はイメージと知識を媒介としたコミュニケーションによって認識の一部を構成する。世界全体のイメージが得られるものとして、自分の行動や存在が相対化されて位置づき、世界を構成する一員となれる。イメージと行動、世界と自分、情報や知識と経験や知恵は、交互の関係のもとにある。混乱した世界のイメージは現実に行動する主体によって整理され、総合されて個々の世界観のイメージが形成されるのであろうか。

イメージの背景
 イメージにおける行動主体は自分自身か他人であるが、他人も感情移入によって空想的に自分が置き換わっている。そのイメージは行動する主体と場面である。場面が不鮮明な場合と鮮明な場合があるが、現実的イメージは場面が鮮明で具体的であるだろう。演劇や映画は空想を仮想のドラマとして表現するが、主体または主体が知覚するものを浮き彫りにするために、背景が舞台にセットされ、主体と背景の関係で場面が提示される。
 実際の行動の場面は、主体と場所とは不可分であるが、主体の場所の移動が、場面の変換を生み出す。行動における場面の連続的な変化は、主体と場所との相互関係の時間的変化と言える。場所を地理的な位置とすれば、場所を含む土地の広がりは主体から別個に存在することを示している。
 場所の拡がりの中で主体が行動するとすれば、演劇を構成する舞台における俳優の演技と同様であり、現実の場所は演劇の舞台であり、その場面は、背景の転換によって変えら、視覚的な仮想空間を作り出している。現実の主体と場所が離れているという認識と、主体の行動と場所は場面によって関係づけられる構造が、演劇の構造に類似して考えられるのではないだろうか。

イメージの顕在化
 人の行動はイメージの実現であるが、現実によって行動が左右される点で、イメージそのものが顕在化したものではない。行動のイメージは目標とそれに向かう想定される過程としての意志と計画が包含された意識といえる。他人にとって、その意識が外部から分からない点で、現実の行動から内面的意識が推定され、行動における人間関係が形成される。
 現実の行動に左右されない主観のイメージは、外部からは分かりえないのであるが、そのイメージを顕在化させたものが、芸術的な創造であろう。しかし、芸術の様々なジャンルの事物を通してイメージが顕在化する点で、事物の性質に左右されている。彫刻がその使われる材料によって、感覚としての触覚と視覚によって、材料を刻む道具と技術によって。そして、絵画、音楽、建築、庭園には同様の物質的条件に習熟することによってイメージが顕在化し、作品が他人によって作家のイメージを知覚し、同化した自己イメージとして受け入れられるのであろう。
 意識の中で形成された世界のイメージは、行動における自己の場所、状況を判断する背景の認識に不可欠である。しかし、世界のイメージそのものが顕在化することはない。心理学でこうした世界のイメージを知る手がかりに行動の場を地図で描く方法が使われている。しかし、その地図は場面であり、行動と一体となっており、土地の広がりにおける行動の軌跡のイメージといえる。

イメージの背景としての模型
 現実の空間尺度そのもの、現物とその意識は相違している。事物の意識はイメージと自己との関係における空間尺度によって合成されていると考えられる。それ故、事物のイメージ自体は空間尺度に左右されないといえる。空想として同じイメージを空間尺度を変えて想定することができる。イメージの空想による縮小と巨大化である。これは事物と主体との距離関係における近く変化、遠景と近景として知覚される。宇宙も遥かな遠景において一つの視野の中にある。しかし、それを主体との関係で認識するなら、遥かな空間の階層の下位ある主体と最上位にある宇宙との関係である。空想はイメージを空間の階層性を近づき、離れるという操作によって、自由なものとしている。
 空想のイメージは、非現実的な自由な行動、浮遊によって生じるとすれば、背景を固定化して自己を浮遊させているといえる。浮遊によって様々な視点が生じて背景の中で自由に行動することを想像している。生活の背景となる空間イメージを現実化する芸術が建築と考えると、それを縮小した空間で示した模型は、生活を意識内の空想ー様々な浮遊する視点ーに引き戻す作用を生じるのではないだろうか。