未来のイメージ 仮説の社会構造

はじめに
 個人の生活にとっては、社会的動向は情報によって知らされ、その情報から自分に関係する情報を選択する。自分と社会との関係は、情報によって広げられている。一見、日常の情報とともに個人の社会へのイメージは、世界に広がっているが、情報の適当な抽出であり、その整理も情報を操作する立場にある評論家の意見(ドグマ)に左右されている。
 過去の社会状況と個人の思い出とは関連しているが、思い出と時代の状況とはすべてが結合しているわけではない。結合を認識するためには、自分の置かれていた社会的空間的位置と社会構造と地理的展開とを構造的な関係として捉えることが必要である。
 この社会構造が変動して時代的変化を生み出すとともに、その社会構造の中で自分がどの位置にあるかと、自覚するならば、社会構造というタイムマシーンに乗って時代を自由に移動するという空想ができることである。自分もまた、こうした空想を楽しんできた。しかし、空想的よりも、現実的であることが、生活自体に還元される仮説である。
 過去の思い出は、時代に埋もれた経験の化石であるとすれば、化石を地上に現すためには、時代の地層を掘り起こす必要がある。現実ではあったが、時間の進行によって化石化され、変えようがないのである。変えることができるのは、現在の行為であり、その行為の意味することを認識するためには、未来の社会構造を予見しなくてはならない。
 未来が予見できないこと、社会的行動の集積が未来を形成することと、現実への批判と変革が、ユートピアへの空想とその実現のためのプログラムの構想が考えられた。空想が構想とされたときに、理想となり、未来の予見できない社会で実現されるものと期待される。しかし、理想の未来も過去、現在の連続した時代的変化の過程である。理想的未来は未だ、タイムマシーンの空想そのものといえる。破局的な空想しか描けないのが、現実的なのかもしれない。
 現実的に、アメリカとロシアの弾道ミサイル削減交渉のニュースがあった。いまだに、数千発の弾道ミサイルがにらみをきかせ、その削減も遅々としているということである。ソ連の解体以前の交渉で削減が実現し、国際的な規制も行われるようになったが、未来の安全のための実現は不完全なままなのである。