風景の模型(12)夜景の空想

はじめに
 一日の半分、は夜となり、生活リズムは睡眠の休息に向かう。夜に煌く光を持つ夜行性動物に出会うことがあるが、彼らは夜の闇の中で油断を見澄ます忍びの者たちである。意識の混濁、活動の停止、夜の闇における知覚の欠除を、安らかに迎えることで、休息が成立する。その夜の闇に、火による光をもたらした。夜が失われたことは、安らかな休息もまた失われたということなのだろう。夜もまた煌く光で知覚と意識の世界のものとされている。

 夜景において、人は煌く光に注目する。それは光源であって、照らされた対象物ではない。光の対象物は闇の中に隠されている。闇は知覚されないだけで、何かが存在し、昼に見た知覚の経験によって、その存在を想像している。その想像の手がかりのない闇は、真の闇なのだろう。
 こんなわけのわからない闇の世界で1日の半分が占められていたとなると、原始人の闇に向かう想像は果てしもなく広がったのであろう。夢は昏睡の中の意識である点で、想像そのものである。原始人の夢は現実との境界が無くなっても不思議ではない。夢が現実を支配し、闇が世界を覆っている。闇の中のわずかな現実で人間は生きているのだと考えられなかっただろうか。夜が昼を支配し、闇が光を意味づける。拝火教徒が闇の世界を恐れ、光の世界に救いを求めた。闇は悪であり、光は善なるものだと。光は火を手にした人間の意志であり、闇は人間を支配する自然とも重なってくる。

月光と夜景
 さわやかな月光が最大の力を発揮して闇を大気として知覚させるのは、満月である。月光によって写真には写せない明るさで、墨絵の風景が浮かび上がる。星空の宇宙の奥行きは消え、雲に見え隠れする月の親しみ深い天空が拡がり、地上の事物をシルエットにして浮かびあがらせる。

 月は鏡であり、別世界であったにしても、月の満ち欠けに時を知り、満月の明るさを待つこと、その満月の闇を救う光によって、人は知性的に夜景を見ることが出来たのではないだろうか。人間の意識を支配するものは、夢から知性へと、暗闇から明るい世界へと比重を変えたのではないか。昼の明るすぎる世界は、現実そのものであるが、事物が光の強弱、色彩の錯綜として表れる。月光は陰と光に知覚を抽象化する。