風景の模型(13)島の風景スケール

はじめに
 学生時代の一ヶ月を越えた旅行の中で鹿児島からトカラ列島の宝島に10日余りを過ごしたことがある。それは、半世紀も前の思い出である。そんな懐かしさから、トカラ列島という本を買ってしまった。絶海の島々の豊かな暮らしの副題になにか腹立たしい思いがあった。本では島の歴史のひとコマや著者が民宿に泊まって温泉に入った話、鉱山跡を見に行った話、サトウキビと黒砂糖や塩つくりの話が書かれていた。思い出との余りの違いに驚いてしまった。
 私たちは鹿児島で十島丸という船の出航を2〜3日待ってやっと船に乗れた。島々は奄美大島まで連なる10の島であり、十島村となって、船の名前となっていたのだ。
 鹿児島を離れる港で別れを惜しむ数人の若い女性を見かけたが、皆、さめざめと泣いている様子に、暗くなってしまった。船は奄美大島まで10の島に一つづつ留まり、人と荷物を艀で積み下ろしては、進んでいった。人口が20人か30人の小さな島に女性の一人が下りて行き、小学校の先生ということであった。小さな分校で3年を過ごすということを聞いて、涙の理由が分かった。宝島に着いて私も含めて3人が艀に乗った。船は1週間後に回遊して戻ることになっていた。

島の生活
 宝島の人口は百人を越える程度と聞いたが、小学校には20人ぐらいの子供達がおり、校長先生とともに3人の先生が教えていた。集落では、子供たちの顔は見分けがつかない程、真っ黒で出会うと元気に挨拶する。猛々しいにわとりが駆け回り、樹にもとまっていた。一軒に泊めていただいたのだが、2〜3日でその家の主人が帰宅したので、野外にテントで生活した。留守宅におばあさんが残っており、何かと気遣ってもらった。浜から採って来た貝をゆでていただいたり、貴重な卵を頂いた。しかし、私たちは何のために来たのかが分からなくなった。厳しい島の住民の生活、素朴な人々の間に入って、自分の空しさを、さんご礁の美しい海岸で嘆いた。
 毎日、することもなく、小高い山が真ん中にある島を海沿いに一周するのが日課であった。1時間ぐらいで回ってこれた。蘇鉄で囲まれた草地にトカラ馬が放たれ、のんびりと草を食んでいたが、蘇鉄の実は島が飢饉の折の非常食であり、さらさないと毒があり、島人は毒に当たることもあったという。山の南斜面は棚田の水田が模様を描いているが、限られた場所であり、水が少ない島では飲み水も枯れることがあるそうである。小さな森は女神の森と呼ばれて、貴重な水源を守っているようであった。そんな厳しい島を恐る恐る回って、出会う島人のけげんな眼差しにこたえて挨拶を交わしていく。3人の目的のない若者は島人に異人種であったのだろうが、何気なく受け入れていただいたのは有難かった。それでも、いたたまれない思いに船を待つ毎日なのだが、予定の一週間を過ぎても、船はいつ戻るのかも分からなかった。
 小学校で子供たちに雪国の話をしたり、通信基地にいる若い自衛隊員と知り合い、夜のさんご礁のイセエビ突きに連れて行ってもらったって、御馳走になり、酒をのんで夜を過ごし、途中で見かける家の人から誘われて黒砂糖を御馳走にお茶を振舞われて、島人の生活に加えてもらった。

島のスケール
 海の広大な拡がりの中に島はあまりにも小さいが、島人の生活はその島の中で、あるいは島を拠点に漁に乗り出して成立している。島は小宇宙であり、世界である。子供たちが遥かな異人の国に雪が降ることなど知らなくても、島の中こそが現実であり、絶海の孤島や離島などとは思わないだろう。その点で島人の生活は豊かであると言えるだろう。広い世界に生きてきた若い女性教師は流島の憂き目を嘆くのだろうが、島人には分からないだろう。われわれには異境の島を異人として訪れたが、50年たっても忘れえぬ思い出となった。
 船が戻り、奄美への船出をした時、閉じ込められていた島からの脱出感は生じなかった。親しみ深い島人の別世界にいつかまた戻ることを確信していた。しかし、年老いた今はそれは遥かな夢のままである。私の中に宝島は生きており、それは夢の中の別世界なのである。しかし、始めて経験したさんご礁の肌触り、さんご礁の切れ込みの海の渓谷を泳ぐ色あざやかな魚類、新月による潮の干満は、真実として実感できる。
 しかし、トカラ列島の10の島のたった一つを知っているに過ぎない。残りの9つの島のことは全く知りえなかった。島によってその大きさが異なることや、人口の違いも数字で知ることができ、それぞれの島の生活が宝島と共通しているにしても、それぞれの島の異なる世界があることだけで、その世界がどんなものか、知ってはいない。奄美大島について、島の大きさはトカラ列島とは比較にならない。そこでは島にいくつもの世界があるか、あるいは世界が成立していないかが、分からなかった。一つの世界を感じるのは、海に囲まれた島が最適であったが、その島の規模が大きくなると、海が境界であったにしても、一つの世界ではなくなるのである。子供の世界が時間とともに消え去ったように。