砂防と治山

はじめに
 大学には砂防研究室と治山研究室があった。現在は流域管理学研究室が砂防研究室の後を継いでいる。治山、治水という言葉がある。オランダ人技術者は大阪の港湾整備に当たって、淀川の水勢管理を行うと共に、上流からの土砂流出を防ぐために、治山事業を行ったという。現在はダムによる河川管理が徹底しているようである。ダムによる河川管理と多目的利用は、戦後の資源開発にT.V.A事業を範にととって行われ、水力発電、用水利用、洪水防止、観光開発を主眼にして進められた。しかし、日本の総合開発は、河川利用であって、流域管理はなおざりにされていたのではなかったのか。
 白馬岳の北斜面の大崩壊地に遭遇した時、森林を失った山腹から、止め処ない土砂に圧倒された。砂遊びの山の勾配が急で保てない限度があるように、その限界の勾配を越えて崩壊し、えぐるような崩壊地が山腹の上部に進行している。治山の限界を越えて、ただ流れた土砂を河川に貯めて下流に土砂が流れないようにしているだけである。そのために、砂防ダムが必要とされている。そこにまた、土砂は貯まる一方なのである。上高地でも梓川に流れ込む土砂は堆積して、河床を高めて問題となっている。斜面の崩壊地を縮小し、土砂の流出を防止することが必要であるが、これは、治山事業であり、林野行政が担当している。一方、河川の砂防事業は国土交通省の管轄であり、さらにその中でも河川管理は砂防とは別の部署となっているとのことである。流域管理の必要は認められ、水害は少なくなったとはいえ、現実はオランダ人技術者を越えてはいないのであろう。

水芭蕉の復活
 塩尻市下西条の緑の会は、集落流域の山地の手入れに取り組んで10年以上になるが、最初に手がけたのが山の神自然園である。霧訪山への林道に面した川に沿って湿地があり、湿性植物が群生していたが、高木が育ち、さらに下層の藪の下になって入れない状態だった。そこに、道をつけ、川を渡る橋を作って、藪を払って、野草群生を楽しめるようにした。しかし、数年前の増水で流路が変わって、野草の群生地を土砂で覆ってしまった。これを会の人たちが掘り起こして、水がたまるようにして、かろうじて水芭蕉を復活させた。しかし、湿地の野草の群生は未だ復活していない。

 湿地は陸地化して別の野草が生育している。小さな川沿いの湿地は、山腹からの土砂と川から運ばれる土砂によって、また、流路の変更によって、非常に不安定であることが明確になった。しかし、数十年生の高木があり、その生育の間には、比較的安定して湿地が維持されたように思われる。予測しがたい大雨であったことも確かである。護岸によって長年、固定されていた流路が削られ、土砂が堆積して向きを変えてしまった。それは洪水の一時的な変更だったが、土砂を残していった。そうした自然の変化に会の人たちは、ただ受け入れるほかはなかったが、集落の被害が軽微だったことを喜ぶだけだった。

たまらずの池の決壊
 たまらずの池は、農業用水の確保のために、土堤を築いて貯水が行われるはずだった。しかし、水が貯まらないので、そのまま池のなめになってしまった。しかし、土砂を留める作用があり、池の上部には土砂が堆積して、川の平地を広げ、ヤナギなどの潅木が侵入してきている。背後の大きな流域からの土砂の量は並々ではない。この池の排出口が暗渠であったために、増水した水の圧力で、暗渠を吹き飛ばして、決壊し、一挙に池の水を下流に押し出したのであり、その水勢が堆積していた土砂を巻き込んで下流に押し出したのである。今度は、開渠に排水口を改良したのでこのようなことは、おこらないだろう。

最後に
 のどかな流れに川沿いの森林と植生は安定しているように見えた。しかし、流域の大きさに、河川の大きさは見合ってあらず、溢れ出た水が湿地を作っていたのである。しかし、山地には大きな崩壊は見られず、森林の効果が大きいことを示している。治山の事業がなくても、森林の存在がその効果を発揮し、森林がなくなると荒廃による災害の危険が増大する。下西条の山林育成への取り組みは、こうした災害の可能性や森林の効果への関心を呼び起こしたといえるだろう。