野の風景

はじめに
 戦後の食糧難の時代、道までが畑であり、野原を見る余地はなかったかと思い出すと、荒れた山はマツとツツジ、ススキなどが疎らに生えて、土がむき出しの荒地であった。そこは、原野と呼ばれるような土地であろう。麦畑だったグランドに立ち入りが禁止されると、雑草が生えて子供の遊び場に都合の良い場所となったが、野原ののんびりとした豊かさはなかった。関西に越した時、近所の空き地は背の高い雑草が繁っており、藪となっていた。野原といえば、水田がレンゲ畑に代わっている場所をそう思ったのかもしれない。水田の畦や土手でツクシを摘み、イナゴを取った所は、野原の断片なのだろうか。そこには、ヤギが繋がれていることもあった。
 話は飛ぶが、長谷村の公開講座で大鹿でチーズを作る小林さんを講師に来ていただいて話をうかがったことがある。その表題が「野に立って考えよう」であったかと覚えている。小林さんにとって、今は使われない路傍、あるいは農地の土手の草地は、ヤギの飼育には非常な資源である。その資源を利用すれば生活ができるということを実践している。小林さんからすれば、そお貴重な資源が放置され、かえって管理の負担を招いていることに、非常な損失を感じるということである。そればかりでなく、周りの資源によって生活することは、自給自足である。それを聞いて、資源的な自立は自主的な意識の源であることを小林さんの山村での生き方は示しているように思った。そこに「野に立って考えよう」という言葉が生じたのだと、肝に銘じている。

在野ということ
 在野とは民の立場にあることで、官職についていないことを指しているのだろう。官にとって野は対比的な関係にあるのだろう。国家が国民の支配機構であり、官職はその支配機構に地歩を確保することと考えれば、専制国家における支配される側の民衆が野ということであろう。しかし、野は支配も及ばないことも現している。近代の革命は専制国家から民主主義の国家への移行であった。民主主義は野の民衆が主体となることの理念だった。オルムステッドがセントラルパークの計画に野原を民主主義の象徴と考えたのと通じるものがあるのかもしれない。戦前の日本人は立身出世を夢見ただけ、野にある意識を強く抱いていたのではないだろうか。
 戦後、民主主義国家として再生したが、個人の自由は勝ち取られたものではなく、与えられたものだったのではないだろうか。人々は野にある立場を忘れて、個人の権利を主張する民の意識に満足しているのではないか。われわれの本源は、自然によって生を受けており、野の存在なのであり、国家の庇護によって存在しているのではない。自主自立、野にある意識を取り戻さなくてはならない。肝に銘じた「野にあって考える」を実践しなくては、個人の自由を勝ち取ることはできない。

自然保護運動から考える
 1970年代の自然保護運動は、言わば、官に対する野の抵抗であり、野である自然を守ることによって、野に生きる自分の存在を守る運動であったのではないだろうか。ところが、官の中でも、自然保護は国土保全と利用の一環として必要であったといえる。官は野の運動の力を背景に環境行政を強化して行ったのであろう。
 長野オリンピックに際して、志賀高原の開発が問題となり、学識経験者による検討委員会が設けられた。数人の委員は自然保護運動にも参加してきた。開発はオリンピック開催を背景に開発を目論む企業の画策があった。委員は学識経験者で官に協力的な立場を取る人もいた。結局、委員の意見が分かれる中で、両論併記の妥協策と開発側の良識に下駄を預けるような結論に終わりそうになった。しかし、国際的な非難を恐れ、また、景気後退のために、企業は開発を翻意して自然保護への結論が出された。
 このような委員会に出る学識経験者は、社会的に公平で将来を展望する立場でいる必要がある。官への協力ではなく、野の公平さにあってこそ、学識経験者の役割を果たせると考えるのが、当然である。自分の主観を排して、専門に虚心となる必要がある。それは、委員会に出て発言する以前に職業としての倫理である。私は、野に還って本来の道を探り、反省を深めたいと考えるばかりである。