場所の風景

はじめに
 場所はこのブログの主題のひとつとして何度か取り上げてきた。場所は主体を中心とした広がりととらえ、空間上で言うならば、主体の位置からの広がりとなり、社会構造の面とともに、西欧の都市広場(Place)、農村広場(Field)を場所の実体の例として上げることができることも、既に述べてきた。
 知覚は外界を感覚から認知する過程であり、主体の行動とともにある試行錯誤の一部であろう。行動の実際は真実の知覚を得る必要があるが、単なる感覚からの認知は多くの錯覚が指摘され、意識の判断は判断の誤りが指摘される。それらの誤りを修正して真実の認知に到達し、誤りなき行動をすることができる。
 風景は全体的な外界を統一的に認知しようとする知覚といって良いであろうが、主体の位置から隔たった外界の広がりの知覚(遠景)は細部を全体に抽象化した視覚のみで正確な認知に到達することができず、判断ができず、空想的になる。一方、場所の行動空間は真実の認知が必要である。ある場所からの風景は、現実的意識と空想的意識との対比であるということができる。
 風景は場所との関係によって成立する点で、その関係を場面構造として考えてきた。風景の一つの主題(例えば富士山として見れば)には多くの場面(葛飾北斎の浮世絵「富嶽百景」のように)が存在する。場面を主に考えれば、風景は場面の背景となる。現実的場面が空想的な背景によって場所の情緒を生じさせ、場面を情景化させるのであろう。風景を主にすれば、場所は前景として知覚される。場所の前景と遠景の風景の主題とは重層的か、漸層的に連続する。前景によって遠景の眺望が隠されると、閉鎖された場所が生じる。

場所の構成
 主体の存在、自分自身が唯一の存在と意識すれば、場所は宇宙の中、地球上、ある国、ある地域、ある地区のある一点の位置である。しかし、その1点から、行動、社会関係、情報と知識によって広がりを持っている。その広がりが場所と意識すれば、多くの人々、生物や自然環境を含む広大な広がりである。
 主体の周囲への関係の広がりを意識と行動によって段階的に、階層的にとらえることができる。その段階は周囲の関係を構成する要因によって相違している。すなわち、知覚として、社会関係として、自然の気象要因としてなど。