真実の風景

はじめに
 風景画において画家がいかに真なるものを追求したか、ターナーやコンスタブルの伝記に詳しく記されている。ロマン主義から現実主義(リアリズム)へ、絵画における印象派の出現も真なるものへの追及の結果として、印象派を色彩や光学から説明する試みも成り立ちうる。ラスキンは近代画家論に風景画における風景知覚(美)にとって「真」なるもの価値を主張している。
 われわれの実際に即してみると、実際ということ自体が真ということでもあるのだが、現在の状態が真であり、現在の状況から過去には経験が残り、思い出として想起された時にはイメージである。未来はさらに空想のイメージである。実際に接し、実際に経験していることは、真実ではあるが、一瞬に過ぎなく、真実を認識する以前に、時間がその真実を押し流す虹と同様である。太陽や虹を真の認識と考えるのは単純な事実であるからだろう。しかし、科学的な探求は真実を真理として追究して、法則を見出すことによって普遍的な真理の認識に到達しようとする。科学的探究でなくても日常的な経験の積み重ねは経験の再現によって、真理ではないまでも真実の確信を持ちうるであろう。
 風に揺れる葉、水面の波立ち、稲光や雷鳴、虹もそうだが、日常体験する自然現象も現実ではあるが、真実として認識しているわけではなく、まして、真理をそこに理解できるわけではない。真実であるか、真理であるかは、探究の結果の確信や科学の実証によってである。その確信や実証を知識として認識して経験に照らして、真実か否かを推理することによって、自己の主観にとらわれない客観的認識に到達できると信じるのであろう。

風景の真実
 風景は一瞬の知覚であり、その知覚から外界を認識するとき、知覚の真実に意識の空想や連想が加わって、認識される。知覚の真実は空想と連想によって誤って解釈されることも生じる。人による風景の相違は、知覚の状況の違いから説明される点と個々の主観的意識の相違から説明される点が生じるだろう。風景の経験が非日常的で連続した経験によって知覚の真実に是正されることが少ない程、風景の認識に主観的差異が大きく生じるであろう。
 現実に価値を置かず、過去の思い出に浸り、未来を夢見ることは、誰にも起こりうることである。しかし、現実に価値を置いて生活している実際に直面して、空想が現実とはならず、そこに真実が少ないことは多くの人は、日常生活の経験から理解しているはずである。
 しかし、現実は矛盾をはらんでいて、変化しないという真実に直面するとき、それに対処するために将来を予見し、計画してその矛盾を克服する努力が必要である。未来の現実的対処に現実にとらわれない経験や空想や知識が役立つといえる。こうした人々の活動する生活環境と自然における風景は、知覚の真実に、その真実を意味づけている生活と自然の真実が交錯している。風景画家の求めた風景における真実はこのようなものであり、科学者以上にその真実を真理に高めようと努力したのであろうか。風景画に生じる迫真力、臨場感は現実以上に人を惹きつけるのそのためであるのだろうか。