風景の自然美

はじめに
 自然美と人工美は対比的に扱われ、芸術における人工こそが美であり、自然に美を感じるのは、美が存在するのではなく、美の意識で自然を見るからである。美の意識に適った自然を美としているだけなのである。このように自然美を解釈することもかのうであるだろう。確かに、存在しているもの描写は、忠実であるだけ、真実に近く、美であるか、否かはわからない。描写が幼稚であれば、真実は伝わらない。しかし、真実にとっては幼稚に見える描写に人工的な意図が表されて芸術となり、人工美を印象付けることがないとは言えない。
 自然環境に適応し、自然の一部であったような原始時代を想定すると、自然の描写は人間同士の伝達手段であり、自然と相違する表現も同時に伝達手段として必要であったろう。たとえば、音は言語によって象徴化される以前には事物の発する音をの擬似的な声として発して伝える。あるいは、危険を伝える信号として、自然には無い声を発するといったことである。自然の模倣と人工とは自然で生活する手段であり、共同体の社会的関係によって維持され、持続したと考えられる。
 現代の芸術ジャンルが原始的な起源に回帰し、原始の生命感を再現できることは、これを証明している。芸術は自然の生活の必要から出発し、必要を技術として修練する上で、必要を超えた形式の高度化が尊敬と賞賛となり、さらに技術を発展させたのであろう。有益な技術は発明として生活に役立てられるが、形式の高度化は人々の意識を高め、楽しませるものであったろう。視覚は絵画に、聴覚は音楽に、事物の形、触覚は彫刻に、しかし、建築や庭園は形式を抽象化できず、技術の一部としての芸術となった。美が高度な形式であるとすれば、その形式を創造する芸術が美を実現するということは過言ではないだろう。しかし、美の創造が芸術家の役割であり、芸術家たらしめるものである点で、芸術家の存在は貴重であるとともに大変な才能を必要とするのだろう。

風景画における自然美の追求
 絵画そのものがあるがままの事物を描写して美を創造しようとする点で風景画が絵画の最初から存在していても不思議ではなかった。中国では風景画と似た山水画が古代より連綿と存続していた。しかし、西洋においてはルネッサンスに風景が発見され、風景画が現れたとされるには、風景を価値あるものとした自然への見方に大きな転換があったのであろう。風景は大気を通過した光によって視覚に映して、空間の広がりと外界の全貌を認知させる。すなわち、個人の感覚と環境の全体像によって構成される知覚である。