森林は美しい

はじめに
 車窓からの風景、山地はほとんど森林に覆われて、近くの木々が電車の進行とともに移動して見える。松枯れ病でみすぼらしい状態だった森林は、下層の様々な広葉樹が生育して、鮮やかな緑とその陰は豊かさを感じさせる。それを美しいというなら、多様性の中の統一というのか、あるいは、森の中に入ったときの快適さへの期待なのであろうか?私の小さな頃の山地は荒れ果てていたのであろうが、子供にとっては、ざらざらと風化した岩石が砂となって歩きにくい斜面も楽しい遊び場だった。まばらに生えたツツジも花が咲くころは、香り高く、その色彩にも幻惑されるようであった。山が森林に覆われると、もうそんな単純な美しさは探してもないだろう。多様性の統一は、複雑な森の生物社会の生態系を形成しているとう姿なのであろうか。
 木々の樹冠は軽やかで、その木々の重なりによって樹冠は浮かぶ雲のように、綿菓子のように森を充たしていて、その間から行く筋にも分かれて差し込む陽光は、森の涼しさと静寂に神々しい光となり、林床では踊る水玉模様でゆれ動くのである。地表をこれほどに飾るものは、森林以外ではありえない。この森林を美しいと言わない人はどこにもいないのではないだろうか。しかし、美しいがゆえに森林を破壊するのであろうか。あるいは、人が美しくなるように手入れをしないからなのであろうか。森林の美しさはまだ、不十分なのではないか。
 森林がただ美しいことに、人は価値を見出さず、その美しさを無視してしまう。そして、私が子供だった時のように、破壊された状態に遊び場として楽しみ、単純さに魅力を感じるのではないか。利用や価値を感じないところに、純粋の美を意識するという通説は誤りなのか?錯綜し、混濁した意識にとって、複雑さは苦痛であり、単純なものによって、一瞬開放感を感じて、その単純さを美としたのであろうか?森林が個々の樹木や植物によって構成されている点で、単純なものから複雑さ構成されているとも考えられる。複雑さに惑わされて、単純さに気がつか無いのであろう。単純なものが関係しあって生じる美に調和がある。また、均衡や対比の関係が生じる。森林にはあらゆる美的形式を見出すことが出来る。
 森林の様々な美的形式は森林を構成する事物の関係変化とともに生じる動的な関係である。風にしなう樹木の均衡は、風によって生み出される。樹木の幹を中心にした枝の対称は、重力の作用であるが、雨や雪によって軽やかな枝がその対称を顕在化する。木々の葉の光と陰の対比とその反復は、陽光の変化とともにその様相を変える。森林が様々な事物と事象を相互に連関させ、変化し、成長して行くだけ、無限の美を垣間見せるのであろう。

絵画と写真による森林美の反映
 森林は絵画に描くには、あまりにも緻密であり、複雑である。今田は森林、樹木の美がどのように絵画に描かれたかの歴史を追って見ようとしているが、画家が植物学者のように樹種の特徴を絵画に示したかは追いきれない課題だったようである。先日の絵画と写真の関係を主題とした展覧会で、絵画でとらえ切れなかった森林が、写真の発明によって急速に写真の主題とされたことが感じられた。
 絵画にとって、樹木の葉は光の点であり、陽光によって葉の一つ一つが反射の強さ、陰の作り方を変えている。樹冠が幾つもの枝、分かれた枝によって大小の群葉のかたまりで構成され、その凹凸によっても葉の反射の色彩が変化する。樹種の特徴を光の点描に与えることができるのは画家の天才的な才能と並外れた技量だろう。しかし、写真は見るだけで目に映じる目と同じく、レンズを向けてシャッターを押すだけで写真となっている。写真は複雑な樹木と森林を簡単に画像とすることができた。しかし、森林の美しさを写真に留めることは困難なことでもあった。すべてが写り、抽象化できないからである。霧の力で抽象化できるかも知れないが、その霧の場面の中で、森林の美を探究した上で、シャッターチャンスを見出す必要がある。画家以上に森林への透徹した感性の修練が必要であるのだろう。