杜子春ー空想の社会構造

はじめに
 今、松尾芭蕉杜子春のことを書こうかと迷っている。今についてか、過去の思い出なのか、しかし、過去の思い出も今にとっての過去なのだ。今という現実と過去の意識の関係であって、今の存在は意識なしに持続している。持続するから、意識があるのだは、デカルトの言葉で、考える葦はパスカルの言葉から述べられている。今を考える時に将来がある。まだ存在しない空想の意識が将来への期待や不安である。あるいは、未来として予見し、計画的に実現を意識するものである、意思なのか。
 今を意識することは、大小、上下、前後、明暗、満足と不満、善と悪、美醜、貧富に自分の状況の位置や基準を与えるものだろう。どのような位置や基準にあるのかを意識して今の状況を見出すのであろう。今に徹した松尾芭蕉と今を見出した杜子春は、私には対比的に、未来への安心と不安の意識に一致する問題といえる。

杜子春
 まず、今を見出せないことは、不安な未来に呆然として今の瞬間が永遠に持続するか、循環するかして、位置や基準があいまいな状況を示している。呆然とした今を杜子春は語っているのだろうか。芥川龍之介の小説は意味深く、しかし、何の生きる示唆も示さない。私の印象では明暗と善悪が無限に戦うゾロアスター教ようにも感じられる。小さなころ、読んで、今を呆然とさせたのが、杜子春であり、河童であった。特に河童は水遊びの子供を不安にさせた。杜子春は未来への不安であり、空しさであり、輪廻である。
 秋の夕日の中で杜子春は城門に寄りかかり、呆然と人々の喧騒を見渡している。その中で一瞬に栄耀栄華とその喪失の夢を見たのである。そして、それが夢か、現実かもわからいまま、夕日の中にいる。白髪になっていたかもわからずにただいるのである。日本の戦後の経済の成長と停滞、その時代の多くの人々の人生も杜子春に似たところはないだろうか。似たところは、未来が見えず、今を呆然としていることである。過去は循環する未来であり、輪廻の運命であると。旅が回帰する輪廻であるように、時間の循環なのである。しかし、太陽の周囲を巡る季節の循環、地球の自転による日夜の循環は、陽光の変化であって、時間には循環がなく、直線的に進行するのみなのである。
 杜子春が城門に回帰し、変わらぬ今にいる時にやっと安心を見出したのであるが、停滞や没落を挫折として意識すると今は年老いて不安そのものである。