風景の空間知覚

はじめに
 視覚を表現するものが、絵画や写真であるが、それは、われわれの網膜に写る画像の視野の一瞬である。絵画や写真が平面であり、視野もまた平面である。視野、キャンバス、写真判は空間を写すフレームのようにも考えられるが、空間の断面を知覚しているだけといえる。
 限定した空間として室内を例とすれば、床、壁、天井で構成されるが、視線の向けた視野は壁の平面、床の平面、天井の平面であり、空間はこの3つの視線の合成物といえる。セザンヌが立体派と言われるゆえんは、立体の空間は、一瞬の視野ではなく、視線の合成物としての認識であることを明らかにした点であるのだろう。事物の認識自体が、事物に留まらない連想によって、見る人の内面に結合した合成物であることが示唆されてくると、ピカソの絵画が理解されるように考える。
 そこから考えれば、事物から生じる感覚と内面に生じる印象を同時に表現しようとしたのが、印象派ということであろう。しかし、一瞬の視野のなかで、感覚と印象の結合があり、視野全体にわたる感覚は光の変化ー色彩に還元される必要があった。そこに事物を形でとらえる知覚は捨象されている。単に機械的にレンズを通して光線を画面の写す写真から、逆に印象の主観性を捨てて、事物の真実性を見出すことができたのであろう。現実の真実性を追求してきた絵画は、写真と並べられて、その技術の未熟さが凌駕されていることが、明白になるだろう。

透視図法
 視野の平面性を空間によって克服しようとしたのが、透視図法といえるのは、建築家によってこれが見出されたことから示唆されるだろう。透視図法的に知覚される空間が生み出され、画家は平板な画面に透視図法による絵画を生み出すことができた。建築と絵画は空間と知覚によって結合させたものが透視図法ということになる。風景画がルネッサンスになって生まれたのは、透視図法の発見が大きな契機であるだろう。しかし、透視図法は平面に空間を表現する方法であって。透視図法だけでは風景画を描くことはできない。平面に風景を表現する技法が様々に追求される必要があった。この過程によって深められた風景画から、風景の認識の深まりを考察したのが、ラスキンの近代画家論といえるだろう。風景知覚の追求が風景画の技法を開発し、絵画の追求によって風景知覚に対する認識の深まりが生まれたといえる。

山水画の遠近法